学び!と美術

学び!と美術

初中の季節(※1)
2014.05.12
学び!と美術 <Vol.21>
初中の季節(※1)
奥村 高明(おくむら・たかあき)

 中教審への諮問や指導要領改訂のスケジュールが発表されて、なんだか喧しくなってきました。初等・中等教育に関する世論がじわりと高まってきた感じです。このような時期になると、様々な場で教科の必要性に関する議論が行われます。本稿でも考えてみましょう。

 まず、わかりやすくするために、あえて単純化してみます(※2)。

■Aさん~「美術が大事」派
「芸術家の活動や作品は、多くの人々に役立っています。美術がないと、生活も味気なくなります。映画もポスターも街も食品も、全て美術が関わっています。色や形を道具とする美術は、生活に欠かせないのです。それを学校で教えないのは、美しい社会や優れた消費者を生み出すことを妨げます」

■Bさん~「教科より学力」派
「そもそも育てたい学力がまずあって、そのために各教科等があります。教科の目標も内容も指導方法も評価も、その集合体としての教育課程も、すべて子どもの資質や能力を高めるために行われる実践です。美術が大事と叫ぶのではなく、資質能力を育てるために美術が必要であり、学力に貢献できると主張するべきです」

■Cさん~「子どもの支持」派
「教科より子どもです。子どもの姿から訴えるべきです。美術の時間では、子どもたちは感性を働かせながら、豊かな発想をします。何より子どもたち自身が大好きで、勉強に追われる子どもたちにとって憩いの場です。子どもたち自身が『美術の時間がこれ以上減るのはいやだ』と言っているのですから、それを奪うべきではありません」

■Dさん~「現実的な対応」派
「前回の改訂の評判がよいのだから、今回はそれをより進める方向になるでしょう。それは、今の日本の課題と直結するもので、おそらくグローバルな視野をもったものになるはずです。東京オリンピックも明確なターゲットです。文化的なニーズを取り込みながら、美術文化の必要性を主張していくのがよいと思います」

 このように並べてみると、どれも一長一短であることが分かります。

 Aさんの言う美術の社会的な大切さはその通りだと思います。日本人の感性を美術の実践が支えてきたことも事実だと思います。でも、この論理は、国語や音楽など、どの教科にも当てはまります。美術関係者は同意するでしょうが、その他多くの賛同は得られにくいでしょう。

 Bさんの意見は、学校教育法や教育制度にそった妥当なものです。確かに、教科は学力を実現するための道具です。でも、少し学力至上主義の感じがします。教科と学力は、本来切り離して語れるものではありません。例えば、学力を可視化しているのは教科です(※3)。教科の歴史や実践も大切にしたいものです(※4)。

 Cさんの意見は、現場で子どもを見つめてきた視点からでしょう。子どもから語ることは大事なことです。発想、構想、技能等々、授業の中で子どもはすばらしい姿を見せます。でも、後半は都合が良すぎます。子どもの憩いや好みというだけでは、大勢の人々の賛同は得られません。

 Dさんの意見は現実的です。行政的な施策を進めるうえでは有効な方法だと思います。でも、世論形成を図るには弱く、その具現化には政治力が必要になるので、一般的とは言えないでしょう。また、進め方や方法を一つ間違うと、教科が埋没してしまう危険性もあります。

 要は、美術、学力、子どもなど、何か一つだけを取り出して、お互いの関係性を切り離して語る限り、どう言っても切り返されてしまうのです。では、どうすればよいのでしょうか。実は、私も答えを持っていません。「自分のできること」を「自分のできる場」で「精一杯やる」それだけです。ただ、その際、AさんからDさんのような実体論にならないように気を付けながら、多くの資源を関係付けてとらえ、その都度、その状況で効果的な主張や実践をしていくことが大事だと思っています。

 

※1:文部科学省では、初等・中等教育局が幼稚園、小学校、中学校、高等学校の教育を担当している。初中局や初中など、略称で呼ぶことが多い。
※2:幼稚園の表現、図画工作も含む。本稿では分かりやすくするために美術とした。
※3:美術科がないと、創造力や独創性といった資質や能力は見えにくくなる。
※4:ただ、国の調査を別として、学力に関して具体的なデータや証拠を集められていないのは事実だ。