学び!と美術

学び!と美術

「子どもの見方」
2014.09.10
学び!と美術 <Vol.25>
「子どもの見方」
奥村 高明(おくむら・たかあき)

 今回は、筆者自身の「子どもの見方」が変わったささやかな出来事を紹介しましょう。

1.「本当に入っていけたらなぁ」

画像1

 20数年前のことです。一年生の造形遊びを見ているときでした。三人の子どもたちが画像1のように水溜りに島をつくっていました。雑草や枯れ枝を植え込んで、それはもう、本物の島のようになっていました。「面白い」と思って子どもたちにカメラを向けた時です。一人の子が、こうつぶやきました。
「あーぁ、本当に入っていけたらなぁ」
聞き流せば、そのまま通り過ぎた言葉でしょう。でも、何度も頭の中でリフレインするのです。聞いた言葉が繰り返すということは、そこに何か意味があるということでしょう。
 考えてみました。まず、子どもは「本当に入っていけたら」と言っています。「本当に」ということは、気持ちの上では「中に入っている」わけです。言い換えれば、子どもたちは「島の中で遊ぶようにつくっている」のです。でも、実際は島の中に入れません。そこで「本当に(体が小さくなって、島の)中に入っていけたらなぁ」と言ったのではないしょうか。そうだとすれば、この言葉は、島の中で走り回っている気分になってつくっていた子どもが、ふと、我に返り「実際は入れない、残念だなぁ、入れたらいいのに……」という宣言だと思われます(※1)。

2.見方の転換

 そう思った時、先輩たちの言葉が一斉に私の中で意味を持ってつながり始めました。それは、以下のような言葉です。
「作品は、その子そのもの」
「作品ができた時、新しい私が生まれる」
「子どもは、まるで自分をつくるように作品をつくる」
 それまで、私は、つくっている「子ども」と、つくられている「作品」を分けてとらえていました(画像2)。つくっている「主体」があって、その「対象(作品)」があってというわけです。でも、この子たちは、島の中で走り回るように、まるで、「作品」と一体化するようにつくっていました(画像3)。そうすると、作品は、その子たちの「対象」というよりも、「その子そのもの」と呼んだ方が適切でしょう。さらに言えば、作品をつくるという行為は、その子自身をつくる実践ということになります。そのことを、先輩たちは独特の言い方で述べていたのです。
 これをきっかけに、私の見方が変わりました。まず、子どもと作品は一体的だということを前提に、子どもを見るようになりました(※2)。その上で、子どもから指導法や指導の改善を考えるようになりました。それが、今も続く私の「子どもの見方」です。

画像2

画像3

3.大人も同じ

 この話には後日談があります。ある大学で学校の先生対象に講演があり、その中でこの話を紹介しました。すると、会場校の先生がやや興奮したように話しかけて来ました。
「いやぁ、今日はいい話を聞きました。私の研究室に来てもらえますか?」
そして、研究室に行くと
「あなたは、この図面の意味がわかります?」
と難解な建築の図面を見せられました。
「いや……申し訳ありません。さっぱり分かりません」
「そうでしょう?そうですよねぇ、でもね、僕はね分かるんですよ!ここは窓でね、ここはドア……それでね、これを描いている時に、体を動かすんです」
「え?」
「『窓は少し高いかな』と外を覗くように体を伸ばしたり、『このドア、開きが狭いなあ』と体をくねらせたり……。つまりね、今日の話と同じなんです。『僕』と『図面』はね、一体なんですよ!」
 なるほど、大人の根幹にも、つくっている「作品」と一体化する「自分」がいるのでしょう。

 

※1:そこには、自分たちの造形活動を引いて見つめる視線も感じられます。
※2:もちろん、幼児でもつくっているものから、すっと体を引いて確かめるように眺めることはあります。「子どもと作品は完全に同化している」と考えるのは危険です。