学び!と道徳

学び!と道徳

道徳授業、今だからこそ、再び「原点」に戻りましょう!
2016.11.29
学び!と道徳 <Vol.04>
道徳授業、今だからこそ、再び「原点」に戻りましょう!
大原 龍一(おおはら・りゅういち)

 「学び!と道徳」第4号です。
 このところずっと話題にしていました「全国小学校道徳教育研究大会 愛媛大会」(全小道研全国大会)も無事終わりました。公開授業、研究発表、指導講話、記念公演のどれをとっても中身の濃い充実した内容でありました。愛媛県で道徳教育の振興に尽力されている先生方の叡智が結集された大会でした。
 「大会主催者の皆様、本当にお疲れさまでした。」

 いろいろな方のご挨拶の中で、「よくぞ言ってくれた」というものがありました。大会二日目の会場となった「松山市総合コミュニティセンター」のロビーでは図書販売のブースが設けられており、今話題の書籍が所狭しと並べてありました。それらの書籍群を指し、「今、道徳の教科化のうねりの中で様々な本が売られている。しかし、それらの中には、買っていいものと買わなくていいものとがある。中々見分けがつきにくいと思うので、先ずは『小学校学習指導要領解説 総則編』と『特別の教科 道徳編』を熟読玩味することだ」とおっしゃいました。まさにそうです。もっと言うならば「買わなければならないもの」と「買ってはならないもの」とがあるということです。特に、問題解決的やら体験的活動等の言葉がタイトルについているとつい手にしてしまいがちですが、「ちょっと待てよ」というものが結構あるような気がします。時流に流され本質を見誤ってしまう危険性があると言ってしまっては言い過ぎでしょうか。

1.教科になったら、そんなに変わるの?

 道徳の時間が「特別の教科 道徳」になったらそんなに変わるの?そんなに変えるの?という主張や授業事例が最近多くなったような気がします。私も何人かの仲間に聞いてみました。「最近何か変!という授業が結構あるんだよね」という声がささやかれます。また、「それ、道徳(の授業)?」といった道徳授業の特質をどこかに置き忘れてきたような授業にも出合うことがあります。特に、「『議論する道徳』への転換」が声高に言われ、あたかもそれが目的になってしまったような授業が見受けられるのは実に嘆かわしいことです。子どもたち一人一人の内面に根差した道徳性の育成がどこかに行ってしまい、騒々しく(あえてそういう表現をします)意見を主張し合うディベートのような授業がよい道徳の授業だと勘違いしているのです。
 道徳は、平成30年度から(中学は31年度)教科として生まれ変わるのだから、新しい方向性を追求していかなければならないということはわかります。しかし、だからと言って着ているもの全てを新調しなければならないのでしょうか。決してそんなことはありません。そして、「新しいもの、新しいもの」といって踊らされている傾向もありはしないでしょうか。今まで培ってきた歴史があるからこそ、これからの未来があるのです。脈々と築きあげられてきた道徳の授業実践があるからこそ、これからの展望を持つことが出来るのです。

2.道徳が「教科」になる背景を、今一度考えよう

 背景には、いじめ問題と道徳授業の完全履行が挙げられます。それだけ、全国の学校で道徳の時間がキチンと行われていなかったのです。残念ながら惨憺たるものだと思います、一部の熱心な学校を除いては。ですから、新しい試みを模索するよりも、先ずは特質を押さえた道徳の授業をちゃんとやりましょう!ということの方が先決問題だと私は考えます。
 特質を押さえた道徳授業の敷衍こそ今まさに求められることではないでしょうか。それが出来ないのに新しいことばかり先行し過ぎることは、まさに砂上の楼閣のごとく崩れ去ってしまいやしないかと心配してしまいます。基礎が出来ていないのですから。
 全国の先生方がちゃんとした普通の道徳の授業を確実に実施して下されば「それでいい」と私は考えます。先鋭的な試みは研究指定校等で鋭意研究を深められれば良いと思います。新しいことばかりをあたかも競争のごとく生み出していかなければならないと思っている先生方に私は言いたい。「早く目を覚ましてください」と。

3.「もし、自分だったら…」の発問は、愚問か

 最近この手の発問をする学習指導案をよく見かけます。結論から言うと、愚問です。特に、展開前段(いわゆる資料、教材にかかわる部分)で、「もし、あなたが『(およげない)りすさん』だったらどんな気持ちになりますか?」「もしあなたが『ロベーヌ』だったらどのように考えますか?」という類の発問をよく見かけます。
 なぜ愚問なのか。それは、言うまでもなく、道徳の時間の指導における発問はすべからく「もしあなたがりすさんだったら」「もしあなたがロベーヌだったら」を前提として聞いているわけですから。りす、あるいはロベーヌになり切っているということが当然であるのです。りすやロベーヌになり切って、りすやロベーヌに託して自分の思いや気持ちを発言しているのです。ですから、あえて「もし~~だったら」と聞くまでもないと言うのが私の意見です。
 そのために、資料提示、教材提示が大切になってくるのです。入念な提示によってクラスの子どもたちを「およげない りすさん」や「最後のおくり物」の世界に誘(いざな)うのです。「資料提示で道徳の授業の成否は決まる!」ということはこういうことなのです。「ここではりすさんになりきって考えましょう!」と声かけしている先生、もう一度自分の資料提示、教材提示を見直してみましょう。
 先日、大学の講義(道徳教育指導法「初等」)で「友のしょうぞう画」を扱いました。パワーポイント(P・P)による電子紙芝居にBGMをかぶせ朗読する手法で資料提示を行いました。以下、学生の声をいくつか紹介します。

●BGMの変わり目でなんとなく(物語の)次の展開の予想がつきます。また、大きなスライドを視聴していると物語の中に引き込まれました。主人公である和也になったようにずっと聴いていられ、様々な感情や思いが私の中に生まれました。

●今日の「友のしょうぞう画」という資料提示でP・PとBGMを使っていてすごく物語に引き込まれました。子どもを物語に引き込むことは、道徳の授業において最も大切なことだと改めて感じました。

●資料提示の仕方には色々な方法があることがわかりました。授業の内容に合わせて工夫したいと思います。今回、先生が行ったのはP・PとBGM、朗読でした。聞いていると、ストーリーが視覚からも聴覚からも入ってきて心にすとんと落ちていきました。児童が自分のこととして教材を考えるようになるためには、語る際にいかに入り込みやすく環境をつくるかが大切だということを実感しました。最後に、BGMだけを流していたところで(余韻をつくる)自分の内面を見ることが出来たので音楽の効果はすごいなと思いました。

 教師になったらぜひこの体験を子どもたちにもさせてあげてほしいと願ってやみません。