学び!と歴史

学び!と歴史

富岡物語(2)
2014.07.23
学び!と歴史 <Vol.78>
富岡物語(2)
富岡への道
大濱 徹也(おおはま・てつや)

工女の募集

画像提供 富岡市・富岡製糸場

 大蔵省勧農寮は、富岡製糸場の完成を前にした1872(明治5)年5月、「諭告書」で「御国製糸の品万国に勝れ永遠の御国益と相成り、全国民をして富強の利に潤ぜんが為」と、蚕が金の卵であり、富国の基となることを説き聞かせ、工女の募集を始めました。しかし、応募者がなかったがため、政府は、9月に勧奨状を頒布し、次のように申し渡したのです。

「其管内に於ても従来製糸等営来り業前未熟の者は、別紙工女雇入心得書に照し、人選の上名前取調べ差出可申。尤も追ては養蚕多分有之地方へは製糸場も施設致度、其節は繰糸の教師にも可相成人物の儀に付、夫是差含人選方針取計来十一月二十九日迄に当人富岡製糸場へ差出可申事」

 かつ「富岡製糸場繰糸伝習工女雇入心得書」で、富岡で働く「伝習工女」の年齢を15歳から30歳までとなし、政府―県―戸長役場と行政組織を通じて地域ごとに10人から15人までを半強制的に割当ました。工女の応募者がなかったのは、(1)製糸技術改良の意味が理解されていなかったこと、(2)外国人に生血を吸われるというような流言によって、異人の監督下で働かされることへの恐怖感が増幅されたこと、(3)若い娘が家を離れて他国に出て、西洋人が「親方」である工場の寄宿舎で暮らすという未知な体験への不安が強かったことによります。
 ここに富岡製糸場長尾崎惇忠は、このような不安を払拭すべく、郷里の入間県(現埼玉県)から娘ゆう13歳を呼び寄せ、範を示したのです。

横田英の思い出

 信州松代(現長野市松代町)の戸長横田数馬は、富岡に女子を出せとの県からの布達にもかかわらず、「人身御供にでも上がる様に思いまして一人も応じる者も有ません」という状況に苦慮し、娘の英(えい)を行かせることにします。娘英は、この富岡行きのことどもを、後に「明治六,七年松代出身工女富岡入場中の略記」(『富岡日記』)として描いております。

やはり血をとられるのあぶらをしぼられるのと大評判に成まして、中には、「区長の所に丁度年頃の娘が有に出さぬが何より証拠だ」と申様に成ました。それで父も決心致まして、私を出す事に致ました。私も予て親類の娘が東京へメリヤスを製します事を習いに行きました時、私も行きたい申しましたが、私より下に四人兄弟が有りまして中々忙しう有りましたから許しません。残念に思って居りました所で有りましたから、大喜びで一人でも宜しいから行たいと申しました。祖父は大喜びで申しますには、たとい女子たりとも、天下の御為に成事なら参るが宜しい。入場致候上は諸事心を用い人後に成らぬ様精々はげみ、あする様と申されました時の私の喜びはとても筆には尽されません。

 英は、富岡行きを主体的に受けとめ、「天下の御為に成事」に参画できる喜びを語っていますように、開化の世を全身で受けとめることができた女性でした。富岡の工女にはこのような女性がいたのです。松代からは、英の応募で参加希望者が続出、16名が選ばれて富岡に行くこととなりました。その年齢的内訳は最年少が13歳、14歳が3名、15歳、16歳が各1名、17歳が英を入れて5名、18歳、21歳が各2名、25歳が1名。
 出立を前に父数馬は、英に「国の名、家の名を落さぬ様に心を用る様」にと申し渡し、英は「心さへ慥に持居ますれば身を汚し御両親のお顔のさはる様な事は決して致しませぬ」と母に誓いを述べ出立の日に備えたのです。ここには、国家の存在がきわめて身近なもの、国家を私の手でつくるのだという意識が素直に吐露されているのではないでしょうか。それは、富岡に入場することで、若い国家の形成に参加しているとの思いを支える想いにほかなりません。

富岡入場者の姿

 英は、戊辰内乱の際に父数馬が着た中黒ラシャの筒袖を身にまとう男装姿で、1873年3月末に松代衆16名の一行として出立。この4月に長野県からの入場者180名は、各県が5,6名から多くて20名程度というなかで、地元群馬県につぐ大勢力で、「信州の人」と何かと名ざされたがため、「松代」であることにこだわった由。強い郷党意識が工女を支える意地でもあったのです。
 ちなみに73年4月現在の府県別入場者は、群馬170人、長野180人、入間82人、栃木6人、東京2人、置賜(山形)14人、酒田(山形)6人、宮城15人、水沢(岩手)8人、静岡13人、浜松13人、石川1人、播磨(兵庫)4人、奈良6人、山口36人の計556人。その出身階層は、78年在籍の寄宿工女371人中の148人、約4割が士族出身の子女。そこには、井上馨の姪鶴子・仲子姉妹、長井雅楽の長女貞子ら旧長州藩、山口県の有力者の一族をはじめとする士族とともに、熊本県の郷士徳富家の音羽、蘇峰の姉を見いだすことができます。製糸場では、これら士族とともに職人・商人の子女、被差別部落出身の娘もいました。
 これらの工女には、富岡で最先端をいく「西洋の糸きかい」の技術習得をめざす伝習工女として、全国に小富岡を生み出す尖兵となることが期待されていたのです。このことは、74年に郷里の埴科郡西条村字六工(現松代町)に六工社(ろっこうしゃ)が設立されたのを機に、横田英ら松代出身工女が「教婦」として帰郷するにあたり、場長尾高惇忠が「繰婦勝兵隊」の5字を大書して前途を祝した思いにうかがえましょう。
 六工社は、松代県士族らの出資金に小野組が資金援助をして創立された50人繰のフランス式器械製糸工場でした。工場は「蚕の化せし金貨を求め」る営みでしたが、「教婦」として帰郷した英ら富岡工女はその設備の落差に困惑せねばなりませんでした。それでも英らは、「国益になる糸」を取ることが村の開化につらなり、国益になるとの想いで励みます。

 

参考文献

  • 和田英『富岡日記』ちくま文庫 2014年6月5日

 

六工社の場所はこちらico_linkから確認できます。