学び!と歴史

学び!と歴史

地域再生に問われるのは何か(1)
2014.10.15
学び!と歴史 <Vol.80>
地域再生に問われるのは何か(1)
―古橋暉皃という存在―
大濱 徹也(おおはま・てつや)

所信表明の虚実

 安倍晋三首相の所信表明演説の「おわりに」は、三河稲橋村(現愛知県豊田市)の古橋源六郎暉皃(ふるはしげんろくろうてるのり)が「植林、養蚕、茶の栽培など、土地に合った産業を新たに興し、稲橋村を豊かな村へと発展させることに成功しました」と紹介し、「“地方”の豊かな個性を活かす」物産開発で、「前に進もうではありませんか」、と問いかけています。
 ここで特筆された古橋暉皃は、芳賀登が1960年末に古橋家を訪問、翌年8月から木槻哲夫らと延々半世紀近くにわたり調査をし、時代を生きた古橋家と村の営みを世に問い、そこで紹介した古橋家中興の祖といえる人物です。私は、この調査にある時期まで参加し、明治における村落再生を検証し、「明治10年代における農村と自力更生運動」(『日本歴史』246、247号 1968年)等を発表しました。所信表明演説は、古橋暉皃が家と村の再生、富家・富村を問うた想いに眼をむけず、短絡的に「土地に合った産業」開発で成功した事例とのみみなしています。
 しかし暉皃は、養蚕・製茶に失敗したがために、山村に相応しいものとして100年先に眼を向け、植林を位置づけ、平田篤胤没後門人として神祇による村民の精神的覚醒をうながし、民心の結集をはかることで富村への途を切りひらきました。思うに、首相のみならず、昨今の地域再生論には、暉皃が村に生きる者としての哲学を説いた志を思いみることなく、経済合理主義から何か利を生む産業さえあれば、起業家精神で何とかなるとの拝金宗があからさまに説かれています。そこで、まずは暉皃の事蹟を紹介し、地域再生には現在問われているかを考えることとします。

暉皃の生いたち

 暉皃は、1813年(文化10)に古橋義教の次男として生まれ、1831年(天保2)19歳で家政を担い、名主を勤め、徹底した倹約策で家政改革を推進、家政再建を果すなかで、天保の飢饉に対応、家財を投じて村の救済にあたり、勤勉倹約を旨とする村づくりをなし、村の地主としての地位を固めていきます。この天保の飢饉体験は、村落指導者暉皃にとり、家と村を一体として自家の安定と繁栄をめざす豪農古橋家の責任意識、名望家たる原点となります。その思いは、家政再建の途上にありながら、「己を責て人に施すは今の時也、仮令我家貧困いかに谷(きは)まるとも、衆と休戚を共にせん」と、村人と一体になった危機への対応に読みとれます。
 村落の更生撫育にあたる暉皃は、指導者たる己をささえる内的規範を求めるなかで、徳川斉昭の「告志篇明君一班抄」を読み、国事公益に励む決意を固めていきます。この思いは、「志を誠正にし善事を積むにしかすと、偶本居宣長御大人の著述せし直毘霊を読み大に感する所あり、益国書の尊きを知り暇日あれは熟読せり」と、宣長が説く「真心」による「神ながらの国」への期待となります。
 暉皃は、黒船来航による外患の危機下、安政大獄、桜田門の変と続く政治的激動のなかで醸されてきた尊皇攘夷の空気にうながされ、1863年(文久3)に平田篤胤の没後門人となります。この入門は、『夜明け前』の青山半蔵、島崎籐村の父親正樹など、在地に生きた名主などの村落指導者が村を改革する精神的な器を平田国学に求めていく軌跡、「草莽の国学」誕生につらなるものです。
 かれら「草莽の国学者」は、1863年3月に孝明天皇が加茂神社に行幸、攘夷決行を祈願したのを受け、平田門国学者が古史伝出版の資金集めで全国を行脚する動きに応じたものです。暉皃は、このような時代の子であり、国学関係の書籍を収集し、南朝遺臣や神武天皇への関心を強めていきます。ここには、御一新―維新をささえる精神文化運動の一端が読みとれます。暉皃はこのような時代を生きた名望家の一人でした。

「経済之百年(よわたりのもと)」問い語ること

 暉皃は、死の直前の1892年(明治25)に「経済之百年(よわたりのもと)」で、松方財政下の不況時を回想、村落更生への想いを認めています。それは、松方デフレ、「日本の原始的資本の蓄積期」がもたらした不況下、秩父事件等に象徴される困民党等の決起をうながした窮乏下の社会、己が村をいかに再生し豊かにするかを述べたものです。先の所信表明演説は、ここに述べた世界の一端にふれたものですが、暉皃の想いを受けとめたものではありません。
 72歳の暉皃は、己が老躯に鞭うって戦った1885年(明治18)の天保の飢饉体験に重ね、「郡民の飢苦」に向き合う己の場を問い質します。

 治に乱を忘れず。豊に凶を思ふ、故賢の戒を、年来、心に守れるを、過し明治18年は、天明8年の大飢饉より百年、天保8年の、大凶作より50年、に当れる年なるを、麦の登熟も、思ひ、よりは、おとれりしかば、殊に焦心苦慮しをり、当時の郡長、佐藤啓行ぬし、郡内巡回とて、我家を訪はれしかば、共に憂談けらく、かくて、秋作相違せば、郡民の飢苦しまむこと、眼前なり、とやせまし、かくやせまし、など談合つゝも、天の降す災は、人力の及ぶべきに非ざれば、各其独を慎むことを、専一として、内に者、奴婢等が、食物の煮炊に心を用ゐ、外また、山を焼て畑を興し、蕎麦大根等、かてものを作らせ、田は水の加減肝要なれば、我身七十有三歳なれど、若人に魁て、朝夕灌漑を巡視て、里人を励さむと、朝の露に起出、夕霧に立帰りて、田の水を、かけみ、おとしみ、する程に、持病疝痛に堪ずして、臥籠りたる、

 このように時代と向き合った暉皃は、「勤倹」二字による村づくりの弊を批判され、「銘々腕稼」での殖産勧業をもくろみ、製茶勧業で民富をきずき、富国をめざします。しかし、1878年からの茶価下落で「茶株も殆んど全廃」「嗚呼これ誰が過ぞや」と慨嘆、徒に「物産興隆の一途にのみ着目」し、「人民各自の快楽嗜好を恣にせむことを以て鼓舞」したが故と、欲望充足を旨としたことが失敗の原因となし、「道義に従ひ天理によりて国益を成さむことを誘導」せねばならないことに気づきます。ここには、「銘々腕稼」という市場原理主義による競争原理がもたらす荒廃をみつめ、「道義に基きて事業を起さしめむ」と、事業をささえる精神の在りかが問われることとなります。
 思うに地方再生―地域振興に問われるのは、「銘々腕稼」という利益至上の競争原理ではなく、「道義に従ひ天理によりて国益を成さむ」というような、ある種の精神性にささえられた地域の連帯、協同がもたらす世界への眼ではないでしょうか。暉皃は、製茶等が無に帰したなかで、どのような構想で村の再生をはかるかを次号で検討します。

 

参考文献

  • 芳賀 登 編『豪農古橋家の研究』(雄山閣 1979年)