学び!と歴史

学び!と歴史

地域再生に問われる器とは(1)
2014.11.19
学び!と歴史 <Vol.82>
地域再生に問われる器とは(1)
―佐藤清臣という存在―
大濱 徹也(おおはま・てつや)

承前

 古橋源六郎暉皃(てるのり)は、土地柄を生かした地域の再生、暮らしの場である稲橋の村づくりを山林に託すとともに、村民に求められる精神的活力の育成が急務とみなしていました。冨村への途は、単なる経済的利益によるのではなく、松方財政がもたらした不況下で荒廃した人心を賦活させる精神の器が問われたのです。ここに暉皃は、民心教導の使命を、維新革命の夢が敗れた失意の国学者、平田篤胤の没後門人佐藤清臣に託します。

荒廃する人心

 『東京経済雑誌』は、1884年に頻発した困民党などの暴発にみられる社会人心につき、1885年の年頭論説「明治18年社会面目の一新」で、「顧りて明治17年1歳の事情を通覧するに、農商式微を極め社会の人心最も衰零に達したりき。社会の内部に顕はれたる諸現象は潰裂濫離の事情なりき」、と松方正義が西南戦争の戦費捻出で濫発された不換紙幣の整理をめざした財政策がもたらしたデフレで現出した不況下の相貌を伝えています。この「潰裂濫離の事情」といわれる情勢は、前田正名が政府に建言した「興業意見」においても、「農家は充分に肥料を入るへきの力なきより、収益を盛時の半に減じ、類年負債の為めに典却したる田畑山林も之を償ふこと能はす、甚しきに至りては納租の道全く尽きて、挙村公売処分を受けんとするものあり」と。
 このような状況下、愛知県では、「農家は負債の為めに所有の土地凡そ3分の1を其抵当とせり。然るに此抵当たる、啻に己の所有に復すること能はざるのみならず、爾後猶ほ其多きを加ふるに在らんことを恐るるなり。県下の現況は夫れ此の如く惨状を呈はせり。其詳細に至りては筆紙の能く尽すへき所にあらず」、と。この「筆紙」に尽せぬ惨状は、捨児、餓死者の増大、自殺、生活困窮から田畑の作物、穀類、食料品等々の窃取、詐欺、持ち逃げ等々の軽微な犯罪の横行にも読みとれます。
 この様相は、経済的不況下の時代において、労働意欲のある者でも長期の失業から犯罪に走る、と分析したE・ゼーリッヒ『犯罪学』が提示した世界にほかなりません。思うに、ここにみられた世界は、昨今目にし、耳にする世間の話題に通じるものです。この荒廃した人心を覚醒するには、日々の暮らしの立て直しとともに、生きる想いをどのように説き語れるかが問われています。

「敬神」の村をめざし

 暉皃は、平田門人として、「村民合同」の基点に神社を位置づけ、村民を神葬祭にみちびきました。この神祇による村づくりは、「山間僻地頑陋之風俗」という地域の迷蒙を開くためにも、学制頒布に先立つ学校設立と一体なものとして展開されていきます。この教育を担うことになったのが佐藤清臣です。
 清臣は、「年貢半減」をかかげて東山道先鋒として江戸をめざした赤報隊の一員でしたが、薩長が主体の維新政府から「偽官軍」として処斷されたとの報に接し、逃亡。暉皃は、失意のうちにある清臣を稲橋の地に招き、学校「明月清風校」の要とします。学校は、「稲橋義校」「稲橋郷学校」とも称され、和洋漢の三学からなるカリキュラムとはいえ、神祇を旨とする国学の精神で貫かれていました。教科では、佐藤信淵が説いた「農業」「物産」が重視され、「算術」が軽視されていました。その教育では、算術計算による事業計画への眼ではなく、敬神という精神教育が重視されていたのです。
 このような思いは、佐藤清臣にとり、学制がもたらした教育を「学校は徒に書算の劇場となりて子弟は進級を競て行を不修父兄は試毫の甲乙算術の遅速をのみ看て心術謙譲の礼儀に於ては不称に至ん、近来此郷党を見るに人心率いて狡猾」に遷り敦厚の心を失ふ事吾初来るの年に較れは一年は一年より甚しこれ教化の不及自愧る」、と批判し、辞意表明となります。ここには、知育と成績を至上となし、徳育を疎かにした学校教育への怒りがあります。この怒りは、近代日本の学校教育を問い質す言説として、現在でもよく聞かされることではないでしょうか。

自力更生をめざし

 ここに清臣は、学校が知育の場になったことをふまえ、村の神官として神祇による民心教化に励むこととなります。その思いは、敬神村稲橋を起点に、北設楽郡を敬神郡としていく村づくりにほかなりません。この村づくりは、『報国捷径』が説く「敬神愛国」の念による民心統一をはかるべく、産土講社の結成をめざすこととなります。この産土講社は、「潰裂濫離」といわれる地域協同体の崩壊に対処すべく、各郷村社の氏子を講社に編成することで、産土祭祀―村鎮守による地域住民の結集を強化しようとしたものです。そこでは、「勤倹貯蓄申合規約」を結ばれるなかで、講社「社中集合之節、社長副社長より忠孝節義殖産上の談話せしむる」と、殖産を説き聞かせ、勤労への眼を育てることが企図されたのです。
 「勤倹貯蓄申合規約」は、「勤勉時間」を増加するとして、「勤休時間表」「年内休暇日」を設定、「無益の時間を消費せざる様注意」「霊祭忌明祭等に用ふる献饌」をはじめ、婚姻帯祝、湯治等々を規制、日常の衣類を「麻衣綿布」となすなど、日々の暮らしの調度等につき詳細に取り決めています。いわば「殖産」への想いは、このような村規約と一体となった勤倹精神として説かれたがために、「神祇の村」づくりという精神主義の隘路におちこむことともなります。清臣は、このような山村の教化を担うなかで、勤倹・貯蓄・分度をかかげる政府の「三要点」運動にのみこまれていったのです。ここには、富村への具体像を説き得ないまま、自力更生の要とされた産土講社による神祇の村づくりという思いのみが独り歩きし、地味たる山林の富に期待することで、殖産への眼が閉ざされていく相貌が読みとれる。それだけに地域を賦活させるに相応しい精神の糧とは何かがいまだ問われているのではないでしょうか。