学び!と歴史

学び!と歴史

母の悲愁
2015.12.25
学び!と歴史 <Vol.94>
母の悲愁
大濱 徹也(おおはま・てつや)

 日本の流行歌には、「九段の母」「岸壁の母」をはじめとし、失った子を慕う母の思いを歌ったものが多くあります。「九段の母」は、上野駅からとぼとぼと、靖国神社に祀られている我が子を訪う母の心をうたっております。「上野駅から」という歌いだしにはリアリティーがあります。日露戦争における旅順攻略で最も多くの戦死者を出したのは、「日本軍人の南無阿弥陀仏は万歳なり」といわれたように、本願寺門徒の兵隊からなる北陸金沢の第9師団でした。日本軍隊で過酷な軍務に堪え、戦場で勇戦した兵隊の供給地は北陸、東北出身者の部隊でした。
 上野駅は、東京駅に対し東京の「裏玄関」といわれてきましたように、北陸、東北からの列車の到着駅でした。亡き子を尋ねる母は上野駅から靖国の社に「とぼとぼ」と歩んだのです。ここには日本の母の原像が読みとれます。その姿は、戦後になると、舞鶴港に入港する引き上げ船に我が子をさがす母をうたった「岸壁の母」にひきつがれていきます。この「岸壁の母」像は、東京都大田区に実在した者で、現在舞鶴港にそのモニュメントが建立されています。日本における母と子の関係はこのようにうたい語られてきた世界にあるのではないでしょうか。

小学校の教科書にみる母像

 国定教科書は、第1期(1903年)の高等小学読本1に「感心な母」として登場し、第2期(1909年)尋常小学読本巻9で「水兵の母」となり第5期(1941年)まで載せられた世界にみられますように、「一命を捨てて、君の御恩に報ゆる」ことを説き聞かせております。この物語は、日清戦争で黄海海戦に臨んだ高千穂の分隊長小笠原長生(おがさわらながなり 1867-1958)の『海戦日録』(1885年)に描かれた一兵士をめぐる母と子の姿を素材にしたものです。このような兵士と母をめぐる物語は、日露戦争に出征する息子の船を見送る母の姿を問い語った第3期の「一太郎やあい」にもみることができます。この「一太郎やあい」は、主人公岡田梶太郎のことが「新学期の小学読本に美談『一太郎やあい』。出征の倅の船を見送って防波堤に叫んだ老母の真ごころ。物語の主人公は生存」「今は廃兵の勇士が悲惨な生活」との記事が大阪朝日新聞高松支局のスクープとして報じられたがために、第4期では削除されました。
 教科書は、「命をすてて天皇に報いる」「天子様のために奉公する」物語を語りかけることで、国民であるまえに良き臣民として生きることを幼き児童の身体に刻みこんだのです。このような母と子をめぐる物語がたどりついた姿は第4期の「姿なき入城」に読みとれます。この物語は、大東亜戦争でビルマ(現ミャンマー)の首都ラングーン爆撃で戦死した「我が子」に語りかける挽歌にほかなりません。

いとし子よ、ラングーン第一回の爆撃に、(略)機は、たちまちほのほを吐き、翼は、空中分解をはじめぬ。汝、につこりとして天蓋を押し開き、仁王立ちとなつて僚機に別れを告げ、「天皇陛下万歳」を奉唱、若き血潮に、大空の積乱雲をいろどりぬ。それより七十六日、汝は、母の心に生きて、今日の入城を待てり。今し、母は斎壇をしつらへ、日の丸の小旗二もとをかかげつ。一もとは、すでになき汝の部隊長機へ、一もとは、汝の愛機へ。いざ、親鷲を先頭に、続け、若鷲。ラングーンに花と散りにし汝に、見せばやと思ふ今日の御旗ぞ。いとし子よ、汝、ますらをなれば、大君の御楯と起ちて、たくましく、ををしく生きぬ。いざ、今日よりは母のふところに帰りて、安らかに眠れ、幼かりし時わが乳房にすがりて、すやすやと眠りしごとく。

「お母さん」という叫び

 日本の母は、「さらば行くか、やよ待て我が子。老いたる母の願いは一つ。軍(いくさ)に行かば、からだをいとへ、弾丸(たま)に死すとも、病に死すな」(「出征兵士」)と戦場に送りだし、戦死した「我が子」を「今日よりは母のふところに帰りて、安らかに眠れ、幼かりし時わが乳房にすがりて、すやすやと眠りしごとく」と抱かねばならなかったのです。母が己の子を取り戻せたのは、死んだとき、骸となった「我が子」でしかなかった。ここに日本の母がかかえこんだ深い闇、悲愁があるのではないでしょうか。
 その「我が子」は、母の面影を抱くことで、戦場で生きられたのです。支那事変で1937年8月22日に戦死した陸軍歩兵中尉立山英夫の地染めの軍服には、母親の写真の裏に認めた母に呼びかけた「長詩」がありました。

若し子の遠く行くあらば、帰りてその面見る迄は、出でても入りても子を憶ひ、寝ても覚めても子を念ず、己生あるその中は、子の身に代わらんこと思ひ、己れ死に行くその後は、子の身を守らんこと願ふ、あゝ有難き母の恩、子は如何にして酬ゆべき、あはれ地上に数知らぬ、衆生の中に唯一人、母とかしづき母と呼ぶ、貴きえにし付し拝む、母死に給ふそのきはに、泣きて念ずる声あらば、生きませるとき慰めの、言葉交はして微笑めよ、母息絶ゆるそのきはに、泣きておろがむ手のあらば、生きませるとき肩にあて、誠心こめてもみまつれ

と問い語り、「お母さん、お母さん」と24回も繰り返し呼びかけています。
 このような母に寄せる思念は、戦場の広くみられたもので、『銀の匙』で評価の高い中勘助は、支那事変の戦場体験を詩った『大戦の詩』(1938年)に「百人斬りけふとげぬれどあすはまた撫で斬りせんと剣をとぎをり」と詠み、

白水村の戦ひに、敵前に擱座して燃えあがる戦車、車外に右手を傷ついて殪れた兵士、左手で書いた遺言、「天皇陛下万歳、豊田隆、隆は今から死にます、お母さん御機嫌」

 日本の母は、流行歌に唄いつがれていますように、「瞼の母」でしかなかったのです。このような想いこそは、立山の母によせる想いに寄せ、上官の大江一二三大佐が「靖国の宮にみたまは鎮もるもをりをりかへれ母の夢路に」と詠んだ世界となります。それは「靖国の歌」となりますが、母の悲愁は靖国という回路に封じ込められたのです。

水兵、姿なき入城(第5期)※クリックすると拡大します