学び!と歴史

学び!と歴史

「地方自治」の実態
2016.07.19
学び!と歴史 <Vol.99>
「地方自治」の実態
「主權者」が主權者になるということ 3
大濱 徹也(おおはま・てつや)

承前

 前田多門が「Civics」に託した思いは、文部大臣として初めて説いたものではなく、帝国大学を卒業して内務官僚となり、若き郡長の課題として公民の育成に心をつくした営みに表明されていました。それは、新渡戸校長が「機会ある毎に強調せられたのは、縦の関係の外に、横の関係の重視すべきこと、即ち、水平的に、各人が相寄り相携へて、善き社会を作らねばならぬ。日本人の教養にこれまで欠けて居り、こん後涵養の急務なるを感ずるのは、社会性(ソーシアリチイ)であり社会奉仕であると」(「道草の跡」『山荘静思』)、日毎に問い語っていた世界を全身で受けとめ、その実現を己が使命としたことによります。

「自治」とは何か

 前田は、若き牧民官として、普通選挙法が地についたものとなり、日本の政治を新しくすべく働きます。その思いは1930(昭和5)年の『地方自治の話』として刊行されています。この『地方自治の話』は、昨今声高に語られている地方分権論などを問い質す上でも、示唆豊かな視点を提示しています。
 その一端は「自治体の事務所」が「役場」と呼称されているなかに日本の地方自治の実態をみる眼に読みとれます。ヨーロッパでは、「自治体の事務所」をTown HallとかHotel de Villeと呼び、町や村の「公会堂とか建物」と見なされている。しかし日本では、「役場」と呼称していることに注意をうながします。この「役場」は、「国政の委任事務」を執行する所で、住民にとり「自分達の共通の事務所といふよりは、寧ろ国家の行政庁たる町村庁の役場に、国家的権力服従の関係において出頭する」場です。それだけに前田は、このような上下の権力関係に位置づけられている「自治」のありかたを問い質し、住民の意識を変え、住民が自治の主体となることをめざし、あるべき「地方自治」とは何かを問いかけます。この意識の変革は、いまだに都道府県「庁」であり、区市「役所」、町村「役場」と呼称されているように、至難の事業ですが。

自治は読んで字の如く自ら治める謂であるが、それはただ自分のことは自分がする、人に迷惑をかけぬ、或は人に依頼をせぬといふ事だけではない。それでは意味を尽くさぬのである。(略)人は孤立して存在することは出来ない。生活には必ず社会といふ背景を必要とする。故に自分が自分を治めることは無論として、その自分の聯なつて居る社会、自分も一員である共同生活に対して之を治める、即ち共同の事情を処理して行く責任を負ふ、かういふ意味が必ず地方自治のうちに含まれて居ねばならないのである。(略)故に団体生活の公共事務といふことを離れて自治は到底成立しないのであつて、ただ自助とか、自由とかいふのとは意味が違ふのである。

共同生活の軌範

 ここで説かれた自治の原点は、明治維新によって国民国家が建設されていくなかで、自然村から行政村になったことをふまえて提示されたものです。

昔から伝統の自治は向ふ三軒両隣が自治である。(略)この連帯責任から発達した部落の自治は、既に明治維新の新政に、將た更に明治二十二年の町村制実施の際に、破壊せられたといふて宜ろしいのである。(略)故に自治観念としてのいはゆる「隣保相佑」は今日においては、現実端的に知り合つて居る同志の団結といふ意味ではなくして、たとへそれが「知らぬ他人」であつても、一定地域内に社会生活を営むで居る必然の関係上、互に相寄り相助けねば、暮らして行けぬ連帯生活、昔のやうに領主の刑罰連帯の笞が団結を余儀なくさせた代りに、経済の理法、社会の約束が、団結か然らずんば破滅といふ運命を示すために余儀なくさる々連帯生活になつたのである。

 知り合った同士がお互いに相佑け合うという関係で成り立っていた隣保相佑は、1889(明治22)年の町村制実施によって自然村が行政村に移行していくなかで破壊されたがため、知らぬ他人が連帯するにはどういうことを考えれば良いのかを問い、「経済の理法、社会の約束」が自治をささえるのだという発想です。前田は、刑罰の鞭による団結ではなくて、「社会の約束」で知らぬ他人がお互いに連帯していけるような共同生活の場をつくっていくことの意味性を説きます。いわば「隣保相佑」を「社会の約束」という概念で転換させ、「経済の理法」が必然的に求めるものともみなし、新しい社会の在り方を地方自治に求めました。自治体の営みは、日常生活に直接関係しており、最も身近な政治と認識しておりました。その荒廃は日常生活そのものを破壊します。その解決には、かってのように情緒的な「隣保相佑」に依存して暮らすのではなく、一人ひとりが政治に直接参与していくことで、己の責任で世界をきずいていくことが問われているのです。