学び!と歴史

学び!と歴史

民主主義の実現をめざし
2016.08.24
学び!と歴史 <Vol.102>
民主主義の実現をめざし
「主權者」が主權者になるということ 6
大濱 徹也(おおはま・てつや)

承前

 『公民の書』は敗戦翌年の1946年に「補修版」として再刊されます。その再刊は、「今日の新時代は何も或人人が考へて居るやうに凡て百八十度方向転換と言ふ訳でなく、十何年前までに戻つて更にそれから再出発さへすれば、やがて健全な民主主義完成を将来に帰することができる」との想いで、新渡戸稲造から学んだ世界が戦後日本の原点になりうるとの決意の表明にほかなりません。戦後日本の建設は、戦前との断絶ではなく、新渡戸から学んだsocietyを問い質すなかで、確乎とした人間への目線を育てることが課題とみなされています。
 この想いは、戦後の1950年10月に著した「新公民道の提唱」で、「日本の政治は今までは上から治めるのであつて、下から公民が持ち寄つてお互いの生活を作り上げていくシヴィクスなる技術を知らなかった」からだとを説いたなかにもうかがえます。日本の政治を滅ぼしたもの、日本を破局に導いたのはcivicsという観念が乏しかったからだと。civicsなる提言は、民主主義を担うための「秩序形成能力」、それを支える「社会的価値判断能力」を身につけ、一人びとりの民衆が民主主義の主体的担い手となることへの期待にほかなりません。

天を仰ぎ神明と語り―公民道の根にある世界

公民道は単に人々を横の関係に結び付けるばかりでなく、若干、縦の関係に人の心を繋いで、天を仰ぎ神明と語り、胸奥深く秘むる内心の光に徹して、見ざるに畏るるの心義を拓くのでなければ、完全を期し難いのである。
かような公民道は、如何にして国民の心に植え付けられるであろうか。私は宗教を離れてその実現の不可能なことを念うのである。

 「縦の関係に人の心を繋」ぐという言説は、前田の師新渡戸稲造が『修養』(明治44年)において、「人間は縦の空気をも呼吸せよ」と説いた教えに学んだものです。それは、青年が志を立てるときに名利を求めるのではなく、「冷静に、私心を離れて公正に考へて貰ひたい」となし、この理想に達するために「人間以上のあるものがある。そのあるものと関係を結ぶことを考へれば、それで可いのである。此縦の関係を結び得た人にして、始めて根本的に自己の方針を定めることが出来る」と、新渡戸が説いた世界にほかなりません。ここに前田は、新渡戸に学び、垂直に天を仰ぎ見る、人間たる私を問い質すときに公民道という横のつながりがより深くなってくることに想いいたし、知らない者同士の連帯を生み育て、civicsの内面化が可能になることを確信したのです。
 いわば見えないものを畏敬する念こそは、1953年11月の「民主主義は先ず心から」において、「民主主義はその行動の形態に於て、共同の生活を、各人が共同して行うことである。共同生活の処理、即ち政治は各人の責任である」となし、己の在り方に目を向けさせたものにほかなりません。ここには、政治を担いうる公民となること、政治を主体的に担いうる存在、civicsへの強き期待が表明されています。まさに秩序形成能力を身につけた公民の育成こそが民主主義を根づかせるために欠かせません。
 その実現への道程は、1955年7月の「私の素朴な幻滅感」で、「民主的な意味で各人が手をつないで共同の生活を行政する姿」を「打ち建てなければならぬ」としているように、道遠き歩みです。それだけに前田は、共同生活を営むことができる、そういう政治に参加する姿勢を学び身につけるcivicsが要るのだと説き続け、その実現を終世の課題として苦闘しました。

前田多門の原点にあるもの

 そこには、「民主主義の根本思想というものは人格の尊厳にある。ということは人格、一人、一人の個性を尊重しなければならないということにある」と1961年10月の講演「政治と民主主義」で説いた世界、「その地域において住民が自分らの力で共同生活を作り上げていく」「われわれが共同生活体の責任者として共同生活体を盛り上げていく」ことを実現したいとの思いがあります。
 しかし知らぬ者同士の連帯だとか横のつながりだとかということを、いろんな形で説きながら、その連帯を為し得ない、異質なる他者を許せない己を知り、その弱き己の姿に前田は涙しています。弱き我を見つめることで、異質なる他者の存在を理解できたのです。この心をみる眼こそは、民衆の智慧に期待し、その可能性に賭けたのです。まさに民衆は、生きていく日常の生活で、神仏や何かに祈りをささげる、自然と向き合うなかで、自然を畏敬する念がその心にあることを、前田はそれなりに認めていたのではないでしょうか。そこには、人間の弱さに対する眼差し、弱さによせる共鳴とその弱さを共有し共に涙することによって、何かを模索していく姿があります。宗教を問い語るときに求められるのは、このような眼差しです。
 いわば公民教育、市民教育、「市民」が市民であり得ると言うことは、市民が横の連帯をしていくときに、「縦の関係に人の心を繋ぐ」ことで、はじめて連帯の実現が可能となります。強さの連帯ではなくて、弱さを相互に認め合い、相互の差異を確認し、町なら町をよりよくしていく方策を探っていく、その歩みを通して連帯を求めていくことが問われているのではないでしょうか。そのためには生きて在る私を見えざる眼で問い質していけるか否かが問われていましょう。このことがcivicsには宗教の裏付けが必要だと前田に言わせたのです。
 想うに日本の教育には、断片としての知識を授けますが、人間として生きるとは何かという根源的な問いかけをする原点がありません。まさに現在問われているのは、一個独立した主權者となるためにも、自分で考える、哲学することを身につけることです。私にいわせれば、私の考えていることを私の言葉で他者に伝え、私の世界を私の言葉で語れるようにすること、civicsを担う器となり得るか否かが問われているのだといえましょう。この根源的な問いこそは、社会の共同性を担い、より良き明日を可能とします。