学び!と歴史

学び!と歴史

御一新から維新へ
2016.12.05
学び!と歴史 <Vol.105>
御一新から維新へ
大濱 徹也(おおはま・てつや)

維新150年を前にして

 2018年、平成30年は、1868年の明治維新から150年ということで、山口県などでは「維新150年」という各種の企画がはじまっており、今から観光イベントとしてもりあげようとしています。顧みれば1968年の明治維新100年をめぐっては、政府が企図した100年行事に対し、歴史学界の多くは反対声明を出し、日本の近代化が「侵略戦争」となったことを論難しました。ある意味では国論を二分したともいえましょう。150年にはどのように向き合うでしょうか。
 この間に歴史研究者は、「天皇制絶対主義」なる言説から「国民国家」論へ視点を移し、「江戸ブーム」ともいえるような風潮にささえられた江戸時代像に「国民文化」の幻想を読み、エコロジー社会、完結型社会の先駆けを見出すなど、日本近代の内在的要因を評価する言説が声高に語られております。
 このような言説の背景には、1968年前後の時代が公害問題、日本大学をはじめ、東京教育大学の移転問題、東京大学安田講堂攻防戦等々をはじめとする大学闘争、公害、ベトナム反戦、沖縄の基地問題、東京都、大阪府等にみられた「革新」自治体の登場等々に戦後政治への訣別と異議申し立ての可能性を見出そうとした気分がありました。このような気分は、経済成長の下での「中流」意識、欲望充足型の社会風潮の渦にのみこまれ、社会への眼ではなく、自己一身の安心立命に自己充足をもとめる「個人主義」に名の下に忘失されていったようです。
 しかもバブル崩壊による低成長時代の到来は、「経済大国」日本が低落するという不安に怯え、「大国」幻想をして「日本回帰」の言説が喧伝される風潮を増幅しております。それだけに維新150年なる想いは、日本人たる「愛国心」、栄光の明治を言挙げすることで、敗戦によって奪われた時を恢復した昭和天皇の記憶に重ね、「万世一系」の「皇統」の国「日本」にことよせて、日本の栄光を取りもどそうとの想い、国家愛の表明、閉ざされたナショナリズムに呼応するものともいえましょう。その一端は、11月3日の「文化の日」、明治天皇の誕生日を旧来の「明治節」となし、4月29日の「緑の日」、昭和天皇の誕生日を「昭和節」にしたい、との念にも表明されています。このような時代の風潮に向き合うには「維新」なる言説が提示した世界を読み解かねばなりません。

「御一新」をめざし

 ペリーとプゥチャーチンの艦隊が来日した嘉永6癸丑(1853年)の衝撃は、朝廷が京都の寺社と伊勢神宮に「夷類退攘」の祈願をさせ、日本が列強の植民地になるのではとの危機感を共有していくなかで、「夷類退攘」から造語された「攘夷」が流行します。この「攘夷」なる言説は、閉塞感にとらわれた時代を突破するスローガンとなり、やがて「攘夷開国」へと道を開くこととなったのです。この攘夷実現は、江戸将軍家の秩序を解体し、「皇国」という国の容を取りもどさねばならないとの想いとして時代を動かしていきました。
 この秩序の解体と一新への想いは、「御一新」、総ての秩序を新たにすると念が命じるままに、江戸将軍家に対峙する討幕への行動へと奔らせたものにほかなりません。慶応3年(1867)12月9日に出された 「王政復古の大号令」はこの思念を次のように宣言しています。

近年物価格別騰貴如何共不可為、勢富者ハ益富ヲ累ネ、貧者ハ益窘急ニ至リ候趣、畢竟政令不正ヨリ所致民ハ王者之大寶百事御一新之折柄旁被悩 宸衷候。智謀遠識救弊之策有之候者無誰彼可申出候事。

 「民ハ王者之大寶百事御一新」との宣言は、「百事御一新」とすべてが新たとなることを宣言したもので、神武復古を掲げた復古革命ともいべき、新権力の誕生を告げたものにほかなりません。西郷隆盛は、「民ハ王者之大寶百事御一新」に新国家の寄るべき場を見出したがために、「維新」という言葉を口にせず、終世「御一新」という言説にこだわって生きたといわれています。

「維新」という言説

 明治の新政府は、明治3年(1870)正月3日の「宣布大教詔」で、御一新がめざした秩序の在り方を問い直します。

今也天運循環百度維新宜明治教以宣揚惟神之大道也因新命宣教使布教天下汝群臣衆庶其体斯旨

 「百度維新」という言説は「惟神之大道」に重ねて説かれたのです。「維新」は「惟神」でもあったのです。しかも「百事御一新」にこめられた体制の大変革なる想いは、「百度維新」、ある種のものを新たとする改革、「神ながら」という建前にそうかたちでの改革に貶められたのです。このような「維新」なる言説は、『日本書紀』巻25「孝徳紀」大化2年(646)3月壬午(20日)の記事にみることができます。

皇太子、使(つかひ)を使(また)して奏請(まを)さしめて曰(のたま)はく、昔在(むかし)天皇等(すめらみことら)の世(みよ)には、天下(あめのした)を混齊(むらかしととの)へて治めたまへり。今に及逮(およ)びて、分れ離れて業(わざ)を失ふ。[国の業(わざ)を謂ふなり。]天皇(すめらみこと)我皇(わがきみ)、萬民(おほみたから)を牧(やしな)ひたまふ可き運(みよ)に屬(あた)りて、天(かみ)も人も合応(こた)へて、厥(そ)の政(まつりごと)惟(こ)れ新なり。是の故に、慶(よろこ)び尊(とふと)みて、頂戴(いただ)きまつりて伏(かしこまり)奏(まを)す。

 ここには大化の改新による政治秩序、天皇による統治の回復が「政惟新」とみなされております。「維新」「惟神」はこのような故事にかさねて読みたいものです。さらに藤田東湖は、天保元年(1830年)の藩政改革上書で「周雖旧邦其命維新(周は旧邦といえども、その命維(これ)新たなり)と『詩経』「大雅、文王篇」によって、改革を論じています。
 いわば「維新」なる言説は、西郷がめざした「御一新」による秩序を解体する革命、復古革命への途ではなく、統治機構の改革による「文明国」をめざす営みでした。このような新政府の方途は、「御一新」に夢をたくした草莽の国学者、島崎藤村の父正樹(『夜明け前』の主人公青山半蔵)をして、新政府に絶望し、座敷牢で狂死せしめたものにほかなりません。
 維新150年を問い質すには、御一新への夢が「維新」となることで、日本における近代国家―国民国家の形成がなされたことを凝視し、「国民」がどのような「文明の徒」として造形されたのかを考えたいものです。国民化される民衆と国家との間には、深い闇があり、多様な亀裂が奔っていたのではないでしょうか。