道徳教育資料
年2回発行。学校現場からの提言、実践例などを内容満載の教育誌です。誌名を「みちしば」から変更しました。
2011.10.31
どうとくのひろば No.07
どうとく授業にまつわる日頃の問いから
兵庫教育大学大学院 教授 谷田増幸
はじめに
ここは「どうとくのひろば」。「どうとく(道徳)」授業にまつわる日頃の素朴な問いをもとに、みなさんと一緒に考えてみよう。「どうとく」は“どう解く”でもあるだろうから。その問いが初めは小さな一石でも、やがては大きな波紋となって、「ひろば(アゴラ、職員室?)」で「対話」や「会話」が始まり、そして「どうとく」に対する理解が少しでも深まるといい。
1 「どうとく」ってどんな時間なの?
上記の問いを発することは、いわば自明のことで、教師であれば少し気後れするかもしれない。でも、恐れちゃいけない。わからないことをわからないと言えることは教育の出発点だ。
まず、「道徳の時間の目標」をあえて項目立てて示すと、それは各教科等における道徳教育と密接な関連を図りながら、①計画的、発展的な指導によって、②これを補充、深化、統合し、③道徳的価値及びそれに基づいた人間としての生き方についての自覚(小学校は「道徳的価値の自覚及び自己の生き方についての考え」)を深め、④道徳的実践力を育成する時間ということになる(『小学校学習指導要領』『中学校学習指導要領』文部科学省、2008)。
でも、目の前にあるどうとくの時間を進めていくときには、どう考えたらいいのだろうか。長年この分野で尽力してきた牧野禎夫は、どうとくの時間を「生徒と教師とが、資料の筆者や主人公の生き方をもとに、人間としての生き方を共に考え、共に語り合い、共に求めていく時間」だと述べている。私も基本線としてはこの考え方に共鳴している。言い方は不遜なのかもしれないが、せめて週に一度のどうとくは、子どもと教師とが同じ土俵の中で人間としての生き方について語り合える時空間であってほしい。喧噪とした日常を黙々と行き交う私たちに、立ち止まって共に語り合う「ひろば」を、どうとくは提供してくれているのだ。生かさない方法はない。
しかし、そこは授業だ。学習として成立することが求められる。牧野は続けて言う。この授業における基本の三要素は「①ねらい、②資料、③語り合うこと」だと。少なくともこの三つのトライアングルを意識しながら、さらにどうとく授業への問いを発してみよう。
2 どんな資料を選んだらいいの?
どうとくの時間には、「登場人物の道徳的行為を含んだ読み物資料を用いること」が多い。あくまでも「広く見られる」ということだ。しかし、「詩、長文の物語や伝記、戯曲、実話、論説文、インターネットによる資料」などその守備範囲は広い。そこは学校・教師の工夫次第だ。
「生徒が感動を覚えるような魅力的な教材」(『中学校学習指導要領』)とあるから、「生徒の感性に訴え、感動を覚えるようなもの」、「人間の弱さやもろさに向き合い、生きる喜びや勇気を与えられるもの」、「人間としてよりよく生きることの意味を深く考えることができるもの」(『中学校学習指導要領解説 道徳編』、以下『中解説』と略記する)などがいい。ということは、まずは教師がそのように感じられるもの、考えられるものということになる。資料は「子どもへのプレゼント」だととらえる人もいるほどだ。少なくとも、子どもと教師とを橋渡しするものと考えたい。だから、資料は軽んじられるべきではない。
ここで少しだけ押さえてほしいことは、どうとくの資料がおそらくは「物語」という形式を取りやすいということだ。つまり、一般的に言って「物語」は特定の人物を主人公として、ある出来事などをもとに多くの因果関係などを捨象して展開されることになる。(当然、どうとくの資料だから、その中に道徳的価値に関わる様々な迷いや葛藤、気付きなどが含まれることになる。)言い方を換えると、「物語」は出来事をいわばリニア(linear)なラインに乗せて単純化させることで、私たちが情報を処理したり判断したりするコストを低減させている。現実に、ある判断をして行為する場合にはもっと複雑な情報(数値によるデータ、因果関係や知識、概念など)の収集と処理が必要となる。それは物事の両面でもある。1時間のどうとくという時間的制約ばかりではない。ねらいに焦点化された資料選択、資料づくりということの表裏の関係にある。
ここまで話を広げると、それはどうとくに限らず私たち自身が「物語」を紡ぎながら生きる存在だということにもなる。ともかく、資料を提示すること自体、すでに教師の教育的意図は働いているのだ。もっとも、意図のない教育も考えにくい。
詰まるところ、資料に対して熱く感動を覚える視点と冷静に分析する視点とを併せもって、どこに道徳的感動があるのか、どこに道徳的葛藤や考えるヒントが含まれているのかなどを考慮しながら、教師自らが納得のいく資料を選択したい。
一方で、自作資料の開発や活用という選択肢もある。それは子どもの実態や課題への即応性や適時性、そして何よりも教師による“手づくり”の温かさなどがある。教師の地道で真摯な取組は子どもの心を感化し、しばしば道徳性の成長となって表れることもある。もちろん、教師の側の資料についての考え方も深まる。それが教育の計り知れなさでもある。
3 ねらいと子どもの実態……?
授業で資料を選ぶ際には、何らかの「ねらい」が想定されることになる。「ねらい」があるからには、その背景に「育てたい子ども像」があるはずだ。
はて、その際の子どもの実態はどうなのだろうか……? 思いを巡らせてみると、目の前の子どもたちのこんなところが気にかかる、こんな課題があると次々に浮かんでくるかもしれない。でも、「ちょっと、待った!」と声をかけてみたくなる。そこにも必ず教師の視点が入ってくるからだ。もちろん、こんな子どもに育ってほしいとか、こんな道徳性を身に付けさせたいという願いをもつことは大切なことだ。
そのときには、とりあえず2つのフィルターをかけて見てほしい。1つ目のフィルターは自分の見方が独断に満ちてはいないかどうか。信頼性や妥当性があるに越したことはない。しかし、道徳教育のねらいは「人間としての本来的な在り方やよりよい生き方を目指してなされる道徳的行為を可能にする人格的特性であり、人格の基盤をなす」(『中解説』)道徳性を養うことだ。子どもの人格に対してまずは謙虚であるべきだ。
そこで2つ目のフィルターが登場してくる。つまり、1時間のどうとくの授業でできることは何だろうかと考えること。(それは1年間35時間(小学校第1学年は34時間)でどのように道徳性をはぐくんでいけばいいのだろうかと展望することと同義だ。)ここに、「計画的、発展的に指導する」ということの含蓄がある。少なくとも、日頃の行為の仕方や振る舞い方に係る指導の時間ではない。ねらいとするのは、子どもの豊かな心なのだ。
4 さあ、授業だ! どのように進めよう?
(1)中心場面はどこだ?
1つの授業の構想をどのように練るかは学校・教師に委ねられている。学習指導案を見たり授業を参観したりする機会には、私も他の人と同様に(?)、この授業の「中心場面はどこだ?」という問いから入ることにしている。読み物資料の分析を踏まえ、どこを手がかりにどのように「中心発問」を設定しているのかということだ。牧野に従うならば、「どこでしっかり語り合わせようとしているのか?」ということだろう。その点が1時間のねらいに即して設定してあれば、あとはそのための指導手順や手立てということにもなる。もう一度言う。その部分の道徳的価値を広く深く理解して押さえておけば、どうとくの時間はそう簡単にはぶれない。
(2)導入(introduction)はどうしたらいい?
導入は、「主題に対する生徒の興味や関心を高め、学習意欲を喚起して、…(中略)…人間としての生き方についての自覚に向けて動機付ける段階」(『中解説』)とされる。ときどき見かけるのは、導入の時間が長くなってしまうこと、導入で意欲付けできたとしても資料に入って以降それが十分に生かされないこと。確かに授業のつかみは大事だ。高学年や中学生の資料になると、子どもの読解だけでも時間がかかる。基本線は「中心場面」でしっかりと時間を確保したい。乱暴な言い方をするが、「導入」を短くして早く深く「資料」に浸らせたいと思うのは、私だけだろうか。
(3)教師の範読前後の「一言」って何だろう?
最近、授業を観るときに個人的に気にかけている点の1つが、教師の範読前後の指示や問いかけだ。もちろん、これが正しいやり方だと断言できるものはない。繰り返すが、授業が「中心場面」に向かって進むと仮定しよう。教師の働きかけは、「中心場面」に向かって不特定の変数(資料の長さや特徴、それぞれの子どもの実態、子どもと教師の人間関係、教室環境など……)を抱えながら多次元の方程式を解いていく道程のようなものだと私は考えている。
だから、教師が「範読前にどんな指示を出すのか? 出さないのか?」、また「範読後、教師はどんな一言から始めるのだろうか?」に注目することとなる。……(前)「これから、○○○の資料を読みます。」「胸キュンとなったところをあとで聞かせてね。」/(後)「このお話の登場人物は……?」「(読後のしばらくの沈黙……アイコンタクトしながら)どうだった?」など。
これはサッカーボールを受けたあとの「攻撃開始サイン」のような趣だ。授業はどこに向かうのだろうという微妙な瞬間・間合いだととらえている。一気に「中心場面」に駆け上がる問いもあれば、話の内容を登場人物、あらすじとていねいに押さえていく問いもある。もちろん、板書もそれに連動していくことになる。よく尋ねられる「資料提示の方法」も関わってくる。資料の作者のことを考えれば、個人的にはあまり切りたくはない。このあたりの「解」は、その時間の指導計画を踏まえた教師の“教育的タクト”(ヘルバルト)にあると思っている。だから、1時間のどうとくの授業はサッカー中継のように一言もおろそかにできない。ヨーロッパスタイルか南米スタイルかは別にして(?)、興味深い。
(4)書いたり話し合ったり(討論したり)する活動って……?
さて、今回の改訂では「書いたり話し合ったり(討論したり)するなどの表現する機会」の充実が求められた。こうした活動は「中心場面」や「終末」など、ここだけはしっかり書かせたい、話し合わせたいというその場に応じて生かせばいい。
「書く活動」は子ども一人ひとりの表現する機会を「書く行為」によって充実させる。経験的に、そのとき授業全体の様相は“個”にかえり“静”となる。一方で「話し合う活動」の場合、ペアトークや班での話合いであれば、一定程度“個”の活動を支える。話合いの範囲の広がりによって、それは“全体”と“動”という展開の様相を帯びてくる。要はその活動のねらいだ。
その際、ある先生から伺って気になっていることの1つが“授業の鮮度”。書いたワークシートをもとに班で話し合ってまとめて発表ということがある。クラス全体での感じ方や考え方をしっかり集約する必要があるというのならそれも然り。けれど、ある子どもからすれば段階ごとに同じ発表の繰り返しで“鮮度”が落ちて見えもする。一方で、教師を中心に全体で話し合いをする場合、ある子どもの発言に触発されて次の子どもが発言し、さらに発言の連鎖を生むこともある。そこには授業の“流れ”があり、発言に“鮮度”があるからだとも言える。
けれども、“鮮度”だけを大切にする授業もどうか。そこでは主として「道徳的心情」を追求しようとするのか、「道徳的判断力」を追求しようとするのか……。“静と動”、“個と全体”などのダイナミズムの中で、表現する機会の充実も結局は教師の腕の見せどころなんだと思う。
(5)終末(ending)はどうしよう?
終末は、「1時間の授業のまとめをする段階」(『中解説』)とされる。ここでもときどき見かけて残念なのは、教師にとってはまとめのつもりでも子どもには「規範か何かの押し付け」のように見えること。(よくあるのは、板書に示した「親切」「思いやり」などの価値内容の文言を繰り返して終わるパターン。)せっかくの1時間が泡沫のごとく消えてしまわないか。自戒の念も込めて言えば、それは教師が「教える存在」として宿命付けられているからなのだろうか。教師の言説に「べし」はなくとも、子どもはそれを敏感に肌で感じてしまうのではないかと思う。ねらいにもよるけれど、そっと寄り添えるような、明日への展望が拓けるような、ちょっとした印象的な話で終わりたいと考えている。
おわりに
こうやって、最近ちょっと気になっていることを断片的に問いかけてきたけれど、それらの断片をつなぎ合わせてみてはいただけないだろうか。少しでもどうとくの時間の見通しが立つようになったなら、正直うれしい。どうとくの時間は(も)、子どもと同じ目線で一緒になって楽しみながら(ときどきもがきながら)考えていける時間になるといい。そのためには、まずは教師自身が道徳の時間を楽しむこと。大上段に構えても、遠慮していても始まらない。
利休の話かどうかは定かではないが、どうとくの時間も“近いゆえに遠い、狭いがゆえに極まって広い”ものなのかもしれない。奥は深い。興味は尽きない。
【引用・参考文献】
牧野 禎夫(2008)「道徳の時間の充実を期して」(未公表)
文部科学省(2008)『小学校学習指導要領解説 道徳編』(東洋館出版社)
文部科学省(2008)『中学校学習指導要領解説 道徳編』(日本文教出版)


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