デザイン力を考えてみてはいかが

ー21世紀学力像の提案ー


日本大学文理学部
小笠原喜康


 “デザイン”と聞くと,どんなことを思い浮かべるだろうか。何かの図案を描いたり,何かの形を考えたりというようなことを思い浮かべるのが普通だろう。だから「デザイン力」といわれると,それは何か美術の技術的能力のように思えるかもしれない。

 もちろんそれも含む。しかしこの言葉,いうまでもなくそれだけではない。よく知られているように,計画という意味もある。そしてこの計画という意味は,今日さらに拡がっている。今日のそれは,向かうべき方向,実現すべき姿,自己存在のイメージなど,あらゆる問題でその解決実現のためのコンセプト・イメージを描くという意味でも使われる。

 インターネット時代の今日,これから求められる学力は,従来のように知識をため込み,必要に応じて引き出すというものではなく,その時々の課題に対してふさわしい知識を探索して,その解決にふさわしくそれらを再構築するというダイナミックなものではないだろうか。そしてそのときに求められるのが、“デザイン”という考え方ではないか,というのが筆者の提案である。

 目の前の課題に対して,一対一対応の正解を求めるのではなく,場合に応じて柔軟な,しかしそれゆえに実践的で力強い解決方策を構築するためには,課題解決のイメージを構築し,そのための遂行計画を立案し,実際の場面において調整していく,そういった能力が求められるのではないか。そういったときに必要となるのが,こうした諸課題をトータルに描き配置する“デザイン”という考え方ではないかというのが,ここで提案したい考え方である。

そこでここでは,まずはこの“デザイン”の意味の解明から始めて,これが子どもたちの生きていくこれからの世界で必要な学力ではないかということを提案していきたい。


1 “デザイン”ってなに?

 この言葉,「デザイン」という言葉は,誰でも知っている。しかし,「で,何なの?」と一歩突っ込まれると,「ん〜」とすぐに答えに窮してしまう。そこでまず,辞典をひいてみよう。まずは,『広辞苑 第5版』。
 
デザイン【design】
 (1)下絵。素描。図案。
 (2)意匠計画。生活に必要な製品を製作するにあたり,その材質・機能および美的造形性などの諸要素と,技術・生産・消費面からの各種の要求を検討・調整する総合的造形計画。
  「建築ーー」「衣服をーーする」

 やはり思ったとおりである。最初の意味が,「下絵。素描。図案」ときた。これは,この“デザイン”という言葉が,日本では服飾の世界で多く使われてきたことを反映している。この世界で“デザイン”をするといえば,まずはスケッチである。服のイメージを紙の上に形にしていく。

 なるほどそうだ,そうだよな,と納得する。だけど,そのスケッチをしているとき,彼らデザイナーは何を考えているのか。少しばかり,去年のものとは違う形を描こうとしているだけなのか。もちろんそれもあるだろう。人はすぐに慣れてしまう,どんなものにも。それが,人の人たる優れたところだろう。だから,ちょっとばかり新奇性をねらうことも必要かもしれない。しかし,そんな意識だけでは人の心を動かせはしない。

 しばしば新奇なデザインで世の人を惹きつけるApple社。一世を風靡したスケルトンのiMacが世に出て,それまでのコンピュータのイメージを一新した。最近出たその後継機(下図)も,ちょっとさわってみたくなる。

 こういうのは,いわゆるイメージ戦略なのだろうけれど,そういった場合でも,ただ単に思いつきだけで形を変えてきているわけではないだろう。ともかくいままでのものと変わっているならばよいとばかり考えているわけでもないだろう。『広辞苑』の(2)の意味は,それをうかがわせる。

 (2)の意味は,「意匠計画。生活に必要な製品を製作するにあたり,その材質・機能および美的造形性などの諸要素と,技術・生産・消費面からの各種の要求を検討・調整する総合的造形計画」というわけである。ここに見えるのは,“デザイン”が(1)の意味のように具体的な何かできあがったものをさしているというのではなく,「計画」というプログラムのようなものもさしているということである。

 この「計画」という意味は,英語ではよりはっきりとでてくる。『ジーニアス英和辞典』では,2番目の意味として,「計画,企画;故意,もくろみ;下心,陰謀」をのせている。下心・陰謀というのはすごい意味だけれども,計画という意味は,“デザイン”が,何かを実現させる意図をもった行為であることがうかがわれる。

 iMacのデザイナーたちも何かの意図をもってあのスタイルを考えたのだろう。もちろんそれは,第一義的に人目をひいて販売を促進したいという意図であったろう。しかしその背後には,コンピュータをもっと親しみやすい日常の道具にしてもらいたいという意図があったのではなかろうか。実際こうした意図は,ある程度伝わったようである。これを買った人の中には,それまでコンピュータなどには近づこうとしなかった若い女性が多かったからである。

 ところで,何かの意図をもち,それを伝えるために計画を立てるという意味をもつこの“design”の語源は,どういうものだろうか。『記号学大事典』によれば,それは次のように説明される。

 語源のラテン語Designareは,de+signであり(deは,from, out of, descended from, derived from, concerning, because of, according to, in imitation of, などの意味),記号を表出する行為,表出された記号自体,対象や意味を明確に示す行為,他との境界を限定して形状をはっきり示す行為,対象や意味に相当する代理物を用意すること,複写や記述,表示する要素の選択,特定の対象や意味に他者の注意を向ける作為,感覚器官で捉えられうる刺激の集合によって対象や意味を代替えする行為,をさす。

 とこのように説明する。何やらむずかしい言葉が連ねられているけれど,要するに何らかの意図をもち,それに合わせて記号を創出する行為であり,それは何らかの形をもったものを最終的につくり出すこと全般をさすということである。しかしこう説明した後で,この事典ではさらに“デザイン”は下記の3種に大別できるという。

 (1)図像,図柄の表層自体。
 (2)対象や意味を指し示すもの(記号)を計画し,創造する行為。
 (3)解釈者(受け手,使用者,生活者)の行為や思惟を制御する目的を果たしうる手段(記号)を計画し,創造する行為。

 こうなると,さらに拡がっていくように思われる。つまり,単に何かの意味を伝える記号をつくり出すだけではなく,受け手の「行為や思惟を制御する目的を果たしうる手段(記号)を計画し,創造する行為」というからである。単に記号を使って情報を伝達するだけでなく,受け手をコントロールする記号の計画と創造ということまで含むというわけである。こうなるとこの“デザイン”は,よりいっそう大きな意味をもってくる。


2 “デザイン”と私たち

 “デザイン”という言葉の事典での意味は,こういったものである。しかし私たちのこの言葉の使われ方は,今ではもっと拡がっているようだ。とりわけ最後の「計画」という意味が,だんだん普通に使われるようになってきている。

 「観光デザイン」「都市デザイン」「ヒューマンデザイン」「ライフデザイン」などなど,およそ計画に類するものならなんでもOKというくらいである。「ライフデザイン」という言葉でWebを検索すると,航空会社系列の会社のHPが語りかける。

 エンジョイライフ
  
活気あふれる素晴らしい生活へのヒント,差しあげます。 (JALUX)

 大学では,従来の家政学科が,「ライフデザイン学科」と衣替えしている。この言葉で検索すると,170件あまりもヒットする。ここまで拡がると,果たしてどんなものかなあという感じもする。しかし,前向きに考えると,この“デザイン”という言葉は,それだけ人々の意識に入り込んでいるといえなくもない。

 ここまでの話ですでに感じられるように,“デザイン”というのは,単に何か新しく格好いいスタイルを描くことでない。私たちをとりまくモノと私たち自身とのかかわりを問いながら,トータルにその関係を構築する,プランニングするということのようである。しかもそれは,単に思い描くというだけでなく,実行性のある提案も含むことになる。

今また政府は,「モノづくり」とか「科学技術」とか,過去の価値観から一歩も抜け出ていないかけ声を叫び続けている。だけれども,私たちにはどうも一向にそれが魅力的に響かない。私たちの満足感が,そこにはない。海外旅行があたりまえにできるようになり,世界のできごとをまのあたりにできるようになった今日,モノにあふれる日本の現実を見つめても,「しあわせ」感がそこにはない。プラダもグッチもほしい。新しいフェアレディーZもかっこいい。でもそれで「しあわせ」にはなれそうもない。どこかで,満たされない思いをぬぐえない。

 こんな思いは,もっとストレートに子どもたちが表現しているのではないだろうか。それが,不登校だったり,ボランティアだったりに形を変えているのではないか。バブル崩壊の中で,大人たちは戦後信奉してきた“ライフデザイン”に自信をなくしてしまった。他方,豊かな世界に生まれ落ちてきた子どもたちには,モノの豊かさを中心とした旧来の価値観がピタッとこない。だからといって,自分自身の“自分デザイン”をもてているわけでもない。私の周りの大学生ももてないでいる。だから卒業してもすぐには職に就こうとしない。じゃあ,どうするんだ。


3 “デザイン”学力の構想

 これまでの学校では,知識は本などの形で他人に伝えられると考えてきた。誰かの知識は,その人の身体・頭脳から取り出し,記号に変換して表すことができるし,その記号を見れば他人がその人の知識を自分の身体・頭脳において再生できると考えてきた。こうした知識観は,記号の形で容易にやりとりできるという意味で,「交換可能主義知識観」といわれてきた。だから,記号化された知識をたくさん知っていれば知識人であり学力のある人でいられた。

 しかし今日二つの意味で,そうした人は知識人の地位を維持できなくなった。一つは,世界の知識量が爆発的に増えてしまったことによる。どんな知識人も,膨大な知識のほんの一部しか知り得ない。そしてもう一つは,インターネットの登場である。インターネットは,たちどころにたくさんの知識を集めてくれる。ずっと昔なら,村の長老,近代に入ってからは学校の先生が知識人だった。しかしその後,知識は発達したマスメディアから仕入れられるようになり,そして現代はインターネットがそれにかわりつつある。

 こうした状況の中,今日,従来の知識観が問い直されるようになってきた。何かを知っているというのは,単にそうした知識を頭の中に保存しているというのではなく,ある場面でのその知識の用い方を含めて身につけているということであり,しかもそれを具体的な場面や状況に応じて構築しなおすことができるということだと考えられるようになってきた。今問題となっていることは何なのか。その問題を解決するにふさわしい知識は何であり,それをどのように用いればいいのか。そういった場面・状況とのセットで知識が獲得されるのであって,それから切り離されたスタンドアローン的なものではないという。

 インターネットの出現は,こうした知識観の変化をさらに推し進めることになった。そうして,記憶・再生的な知識の意義を一挙に押し流してしまった。つまり誰でも必要なときに簡単に必要な知識にアクセスして取り出すことができるようになってしまった。従来型の知識のある人は,こうしてもはやその地位を追われることになった。

ではそれにかわる知識のある人とは,どういう人なのか。ここで私は,“デザイン力”のある人というのを提案したい。その人は,知識を「もっている」人ではなく,その場の状況にふさわしく知識を再構築できる人である。インターネットを使って知識を集め,それを目的に合わせて配置・構築する。しかし,もちろん知識を集めるには,目的に合わせた探索ができなくてはならない。

 では,膨大なWebサイトから必要な知識を集めるにはどうしたよいのか。闇雲に検索をかけても何も出てこない。自分の目的に合わせた「目当て」をもたなくてはならない。ではその「目当て」はどうしたらもてるのか。ここに,“デザイン力”が必要になる。つまり何かの効果的な「目当て」を覚え込むのではなく,そうした「目当て」自体を自分で構築していく,そうした意識をもった探索ができる人でなくてはならない。

 総合的学習の時間でめざしているのは,決して単に昔の経験主義の再来ではない。また単に探求を形としてできるようになることでもない。そこには,目的をもった探求をデザインし,それに沿って情報を集めて再構築し,それをさらに効果的に表現したり実施に移すという,トータルなデザイン感覚・プロデュース感覚が求められているのではないだろうか。ではそうした“デザイン力”の育成は,どうしたら可能になるのか。

 もちろん簡単ではないだろう。しかし今必要なのは,そうした意識をもつことである。学習結果の発表もマンネリ化していないだろうか。模造紙を使って発表するときに,ちょっとレイアウトを考えてみる。そうした小さなところから,この“デザイン”感覚の育成を試みてはどうだろうか。そうして少しずつ,子どもたち自身が“自分デザイン”を構築するようにはたらきかけてみてはどうだろうか。

 子どもたち自身が,自分で計画し,情報を集め,自分の知を構築し,実行していく,そんな能力,それが“デザイン力”。知識は,そこにあるだけでは知識にはならない。一人ひとりの中で生きてはたらいてはじめて知識になる。当たり前のことだが,この“デザイン力”をキーワードに,もう一度このことを思い起こしてみてはいかがだろうか。

 

坂本百大(他)編. (2002). 記号学大事典. 柏書房.
JALUX. Jライフデザイン.(http://www.jalux.Com/ld/lif/lif_01_01_01.html).2002. 10. 8. 取得。

 


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