学び!と歴史

平安神宮の創建

 京都の平安神宮は、平安遷都を行った第50代桓武天皇を祭神となし、平安遷都1100年の1895(明治28)年(皇紀2555年3月15日)に創建されたものです。その建物は、遷都1100年を記念して京都で開催された第4回内国観業博覧会が企画した大内裏の一部を8分の5の規模で復元したものを用いたため、社殿が正庁である朝堂院、拝殿が大極殿、赤く光る朱色の正面の門が応天門をそれぞれ模したものです。1940(昭和15)年(皇紀2600年)には、平安京における最後の天皇である第121代孝明天皇を祭神に加えました。
 明治維新で誕生した近代国家は、南朝ゆかりの湊川神社(明治5年創建 祭神楠木正成)などのように、歴史上で功績のあった人物を神に祀る神社の造営を初期から手掛けていました。しかし天皇を祀る神社は、1890(明治23)年(皇紀2550年)に神武天皇を祭神とした橿原神宮や、前述の平安神宮などと、明治20年代になってからなのです。
 ここには、ある記念の営みに合わせて歴史を想起させ、天皇をめぐる記憶の創成をめざそうとの営みがみられます。

桓武の王朝

 平安京を新たな京とした桓武天皇は、第40代天武天皇の王統が「天平」の元号とともにある不滅と信じていた仏教に支えられていた平城京を否定し、天智天皇の王統につらなる王として長岡京に新都を造営し、旧王権に代わる政治をめざしました。山部(やまべ)親王である桓武が天皇になるには幾多の政争がありました。父白壁(しらかべ)王は、天智天皇の皇子施基(しき)親王(春日宮御宇天皇と追尊=亡父、亡祖に尊号を贈ること)の子であり、天武の王統が天皇となるという不文律(「不改常典」)から見れば傍流にすぎません。
 白壁が孝謙・称徳後に即位して第49代光仁天皇となりえたのは、天武-草壁-聖武-孝謙天皇の姉妹たる井上内親王を妻としていたことで、次に井上の子である聖武天皇の皇孫他戸(おさべ)親王を皇太子として天武王統に戻すことが想定されていました。しかし、この天武王統回帰への想いは、井上皇后・他戸皇太子を死に追いやることで断たれ、山部親王が皇太子となることで桓武天皇への道が開かれました。
 山部・桓武は、百済系の下級氏族にすぎない高野新笠(たかののにいがさ)を母となし、土師(はじ)氏につらなる低い出自で、皇位につける者ではありませんでした。それだけに血脈の低さは、血で血をあらう政争を経て天武系から天智系に王朝交代が成立しただけに、己の王権をいかに正統なものとなし、天皇として統治するかが問われていました。そこで天武系の平城京に代わる新しい京を、天智天皇の近江京に近い地である長岡京に設定しようとしたのです。
 長岡遷都は、天武系から天智天皇-施基-白壁・光仁天皇という天智系王統への交代が天命による王朝交代であるとなし、その世界を具体化しようとしたものです。桓武は、天武系王統の復活を謀った氷上川継らを処断し、聖武天皇系の皇親や前代からの重臣を一掃して専制君主たる権力の集中をはかります。そこでは天智-施基-光仁という桓武天皇直系の父祖を顕彰し、光仁・桓武の名前である白壁と山部の使用を制限し、大津宮の近くに梵釈寺(ぼんじゃくじ※現在は廃寺)を創建し、光仁天皇陵を平城京北郊から父施基皇子の眠る田原(現奈良市)に移しました。
 かつ785(延暦4)年11月と787年11月に河内国交野(かたの)で天神祭祀を営みます。この祭祀は、中国歴代皇帝が営む郊祀(こうし)に倣ったものです。郊祀は、毎年冬至に都城の南郊で天帝を祀る儀礼です。桓武はこの儀礼に倣い、円丘を築き、犠牲を捧げ、唐と同じような祭文を読み上げさせました。唐では天帝と太祖または高祖を祀りましたが、桓武の郊祀では光仁天皇が祀られていました。この営みには光仁天皇を新王朝の創始者とみなす想いが読みとれます。ちなみに交野の地は、長岡京の南方10キロメートルの地、桓武の出自にかかわる百済系氏族である百済王氏の本拠地です。まさに桓武天皇は、百済系などの渡来系氏族を権力の基盤にとりこみ、天武-聖武天皇の王統を否定し、新たに天智-光仁-桓武天皇の王統を宣言したのです。

※一連の皇室系譜については
Vol.38 古代、生死をかけた政争劇
Vol.39 古代、掟に縛られた政争劇 参照

王城の地・平安遷都

平安神宮

平安神宮(京都市)

 長岡京遷都は、皇太子早良(さわら)親王を擁立する平城廃都の反対勢力による藤原種継の暗殺、飢饉疫病の流行で頓挫しました。ここに793年正月に山背国葛野(かどの)郡宇太(うだ)が検分され、10月に遷都詔を発し、山背国を山城国に改称、平安京と命名します。この命名は、平城京や長岡京などいままでの都城が地名を冠したのと異なるもので、即位から遷都をめぐる政争がもたらした非業の死をめぐる怨霊と飢饉・疫病・天災の跋扈に怯える天皇の「平安」への祈念をこめたものといえましょう。この地は、太秦の地を中心に渡来系氏族である秦氏の拠点があり、「四神相応の地」にして「山河襟帯自然城」と形容されています。東の流水が青龍、南の沢畔が朱雀、北の山が玄武の諸徳を備えた北高南低の地勢が「黒龍水性の地」とみなされた理想的な王城の地とみなされたのです。
 理想的な京とみなされた平安京は、平城天皇の奈良への還都をめぐる藤原薬子の変を鎮圧した嵯峨天皇によって、己の王権を正当化すべく「万代の宮」と宣言されます。かくて平安京は、王城の地たる京都として、1869(明治2)年の東京遷都まで日本列島の都として君臨しました。京都は、明治維新後の国家においても、皇位継承の大嘗祭が京都御所で営むと皇室典範が規定しているように、王城の地でありつづけたのです。
 桓武天皇は、平安京を 1.条坊のマス目にあたる「町」を40条(約118メートル)四方に統一し、 2.羅城門の左右の東寺・西寺を置き、他の寺院建立を認めませんでした。この処置は、旧来の都城が官寺・私寺を不可欠な要件としたのに対し、旧来の仏教勢力との断絶を表明したものです。まさに平安京は、内裏-大極殿-朝堂院という中枢が集中した平安宮のもとに、新たな王城の地に相応し京として造営されていくのです。

 この、時空間で営まれた世界は、枕草子や源氏物語が描き、蜻蛉日記をはじめとする多様な日記等に読みとれましょう。その王朝の世界は、桓武天皇が自らの存在を誇示した天神の祭祀が物語るように、強く唐の世界に規定されたものでした。