学び!と歴史

学び!と歴史

16世紀という時代 ―開かれた世界への眼―(5)
2017.05.31
学び!と歴史 <Vol.111>
16世紀という時代 ―開かれた世界への眼―(5)
大濱 徹也(おおはま・てつや)

承前

 日本巡察師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノは、1579年に来日、82年に帰途につく際、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノら4人の少年をヨーロッパに派遣すべく同伴しました。第2回の来日は、少年使節の帰国に同伴した1590年で、天正15年(1587年)6月の伴天連追放令に対処すべく、秀吉に面談するとともに日本教会の在り方を在日宣教師とはかり、92年に離日。ついで第3回は1598年から1603年で、キリシタン禁教に喘ぐ日本キリシタンの方途を切り拓こうと努めたのです。ヴァリニャーノは、任務のために「天正遣欧使節」と呼ばれる4人の少年を引率しての母国への凱旋がかないませんでしたが、旅の成功に心をくばっていました。この少年使節派遣は、日本宣教の成果を母国の王侯貴族、さらにローマの教会に示すことで、イエズス会の宣教活動へのさらなる支援を求めてのものでした。少年らの旅は、各地で大歓迎を受け、ローマ法王の謁見もあり、90年に禁教下の帰国となりました。

日本キリシタンの状況

 イエズス会の宣教は、少年使節の派遣にみられますように、禅宗や本願寺等の仏教と激しく競うなかで、大きく展開しておりました。その様相は、16世紀を「キリシタンの時代」といわしめます。日本イエズス会は、1583年現在、「下」、「豊後」、「都」の3教区で構成され、イエズス会員が84-5人(32名が諸国籍の司祭、修道士の20名が日本人、他は学生、幇助修士)、同宿100名、雑役者300名。200教会、15万人と報じています。
 「下」は有馬、大村、天草、平戸の領地等で11万5000人の教徒。内3名の領主がキリスト教徒。大村領では、領主が1563年に受洗、寺社破壊、全領民が改宗、1人の異教徒もいないと。長崎・茂木は大村氏の寄進でイエズス会領となり、ある種の要塞化しており、ポルトガル船の入港による収入で運営されていました。
 「豊後」は、老国王大友宗麟がキリシタンとして宣教師を厚遇し、国主大友義統はまだ信徒でないが修練院1、学院1、修院2が設置されており、1万人以上のキリシタンがいました。山口は、本願寺につらなる毛利の支配により司祭が不在でしたが、ザビエル時代の信徒699-700名。
 「都」は、日本でもっとも「優雅で富裕な地方、政治の中心」地で、異なる諸国に神学校1、修院が都、安土、司祭館が高槻にあり、河内には2万5000人のキリシタン。
 このような報告の一端は、宣教師がもたらす貿易と先端知への期待から、イエズス会に好意をもった領主の支援もあり、宣教が展開していたことをうかがわせます。その宣教は、領主階級が求めたある種の政治的経済的利得からの「好意」以上に、戦乱の巷に放置された人々への奉仕活動、「ポロシモ」―隣人愛の営みが民衆の心を揺さぶり、「貧しき群」をキリシタンにしたのです。巡察師ヴァリニャーノは、「貧しき群」の存在を嫌悪したカブラルの方針を否定し、ザビエルが提示した日本順応の布教方針を確定しました。この方針こそは日本16世紀を「キリシタンの時代」といわしめる状況を可能としたのです。宣教師の日本順応は、ヴァリニアーノの日本研究の成果、日本人の日々の暮らしの営みを描いた「日本諸事要録」にみられる日本理解をふまえた諸方策に読みとることができます。

アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノの日本―「日本諸事要録」(1583年)の世界

 ヴァリニャーノは、他者たる日本への鋭い目で、相互の文化がもつ差異性を理解し、日本の文化―暮らしのかたちについて個別具体的な方策を提示することで、日本と日本人との付き合いの作法を説きかたっています。「日本人の他の新奇な風習」は、ヨーロッパ的世界と全く異質な文化が生みだした世界であるが、その文化に秘められている魅力と活力を理解しようとしています。

 彼等は真に思慮と道理に従うから、他の国の人々の間にみられるように節度を越えた憎悪や貪欲を持たないのである。だが彼等に身受けられる
1)悪は色欲上の罪にふけること、
2)主君に対してほとんど忠誠心を欠いていること、
3)欺瞞と虚構に満ちており、嘘を言ったり陰険に偽り装うことを怪しまないこと、
4)はなはだ残忍に、軽々しく人間を殺すこと、
5)飲酒と、祝祭、饗宴に耽溺すること、
日本人は、他のすべての国民とは、はなはだしく異なった儀礼や風習を有しており、まるで他のいずれの国民とも、いかにしたら順応しないかを故意に研究したかと思われるばかりである。これに関して生ずることは想像を絶する。事実日本はヨーロッパとは全く反対に走っている世界である。すなわち、我等とは、いかなることにおいても合致しないほどすべてが異なっており、食事、衣服、栄養、儀式、言語、交際、及び起居、建築、家庭内での奉仕、負傷や病気の治療、子供の教育、養育、その他すべてのことにおいて言語に絶した理解し得ないほど相違は大きく、正反対である。これについて私が驚嘆するのは、深い思慮と統制力を有するのに、なお彼等が諸々の悪の中に生きていることである。

 ここには、キリスト教的世界とは全く異質な日本の在り方に仰天しながら、日本と日本人の固有な世界への目があり、その固有性を可能な限り受けとめることで日本人を理解しようとの強い意志があります。この強き意志こそは、三度におよぶ日本行きをなさしめ、信長と秀吉に向き合い、その声を聞きながら、禁教下のキリシタンが信仰によって生きる道を模索せしめたのです。厳しい禁教化を生き、殉教に耐えうる信仰的確信はヴァリニアーノが準備した信仰訓練によって可能となったのです。