学び!と歴史

承前

 ヴァリニャーノは、どのように日本と日本人を読み解き、いかなる方策を提示したのでしょうか。

宣教に問われたこと

 日本宣教方策は、カブラルが切り捨てた日本人への対応を否定し、まず日本人修道士・同宿とヨーロッパ人宣教師との統一融和をめざすことからはじめました。同宿とは教会などで宣教師らの身の回りの世話をなし、日本人信者との間をとりもつ人々。

1)イエズス会に入る日本人を、あらゆる点でヨーロッパ人修道士と同様に待遇し、同宿もその身分に応じて同様に扱うこと。
2)イエズス会の会則に応じて、温和と愛情をもって日本人を待遇し、徳操と宗教的贖罪を教えるように努力する。かくて我々の中に、粗野や激情、怒りによる動揺、無礼や侮辱的言辞を感じさせないようにする。常に彼等を道理によって指導し、納得させ、贖罪や処罰においても、感情でではなく、愛情をもって待遇し、すべて彼等の幸福と利益の為に努力していることを理解させなければならぬ。
3)習慣や態度、挙措の異なる他国民に、悪い感情を抱いたり悪口を述べてはならぬという我等の規則を厳格に遵守すること。
4)あらゆる努力をもって日本の習慣、その他のものを修得し、喜んでこれを遵守せねばならぬ。
5)我等はヨーロッパ人の嗜好をすべて放棄し、自らを制して彼等の嗜好に合わせ、彼等の食物に適応せねばならぬ。

 ここに日本人は、ラテン語の学習への道が開かれ、イエズス会員への道が用意されたのです。この宣教団内の改革のみならず、宣教師には日本の生活に可能な限り順応していくことが説き聞かされております。その一端を日本人との社交、付き合いについての言及にみることとします。

日本人とどのように交際したらよいのか

 ヴァリニャーノは「日本の習俗と気質(カタンゲ)に関する注意と助言」で、「パードレやイルマンが日本の習俗や気質にあてはまった行動をとる」指針を提示します。その指針は、日本人と付き合うにあたって権威を獲得し保持するための取るべき方策で重要なこととして、「身分、位階についての様々の等級があり、すべてのものがこれをこの上もない熱心さをもって守ろうと努め、各自が自己の身分、位階に適ったことより以上にも以下にも行動しないように」、身分に相応しい行動が必要なことを繰り返し説いています。それは、手紙の出し方から、来客の迎え方―座敷に上げるか否か、お茶の出し方等々にまで詳細にわたるものです。かつ領主との関係は、ヨーロッパの政治と非常に異なるから、「軽々しく動いてはいけない」、「領主の意志を汲みとることのできる何人かの立派なキリシタンに十分」に相談した上で対処し、「いかなる領主にも大砲やその他の武器」を斡旋しないこと、等々。さらに領主、国衆、奉行、「騎士」は何処の座敷に通せばよいか、中間、町人、百姓は立場によって門前か玄関口か、女性にはいかなる座敷の出入りをするにせよどのような挨拶も儀礼もしてはならない。パードレは座敷で待っていなければいけない。縁側まで送って行きたいと思うほどの「貴婦人」は別であるが、と。礼儀作法がきわめて厳格な階層秩序にもとづいていることを繰り返し教えています。そこでは、盃と肴のやりとり、宴会と贈物等々におよぶ諸注意が詳細に述べられています。まさに「礼法指針」が説き聞かせた世界は、日本人が日常的に営んでいた暮らしの仕方を「異文化」とみなしたがために記録したわけで、16世紀の日本における暮らしの作法にほかなりません。日本の暮らしにみる階層的秩序と男女差が読みとれます。宣教師はこの手引きで日本人の心にせまったのです。

宣教をめぐる確執

 このような順応策は宣教師に素直に受け入れられたものではなく、ヴァリニャーノの反対派は、カブラルのみならず、少なからず存在していました。その一人、ペドロ・ラモン(1577年来日)が生月から出したイエズス会総会長宛(1587年10月15日)の少年使節の「欺瞞」を告発した書簡に読みとれます。この告発は、日本宣教の成果を誇大に宣伝し、王侯貴族からの多額な宣教資金を獲得し、巡察師としての己の場を教会内で固めようとの思惑に対する反発にほかなりません。
 この書簡は、ともすれば神話化されてかたられてきた遣欧使節像を問い質し、派遣をめぐる宣教団内における確執、さらに禁教下における日本宣教を問い質す素材ともいえましょう。禁教下の宣教師が「フェリペ国王の手でこの日本国内に要塞を一つ獲得しなければならない」との想いを表明していることは、ヴァリニャーノがめざす宣教方策と全くことなるものですが、キリシタンの存在をめぐる17世紀の日本の選択を読み解く一つの手がかりともなりましょう。

少年使節の欺瞞―今年起こった出来事は、事の経緯を知っている当地のわれわれ会員にとって非常に驚くべきことであった。またそれが、日本人の間でわれわれのことについて強い不評を買う原因となったのも事実である。それは、御地に赴いた例の日本の少年たちについて行われたことであって、御地から届いた書簡によると、彼らのことを日本の領主とか王公と呼んでいたが、彼らは御地にとってはなんらの価値のない者で、日本においては非常に貧しく、あわれな貴族にすぎない。猊下に断言するが、御地で彼らに対して行われた事を聞いた時には、私は恥ずかしさで顔をおおったほど驚いた。われわれ会員について多分最も良く理解している日本人たちがそのことから得た教訓は、イエズス会士はこのように事を偽ってまで日本でキリスト教界をつくろうとしたので、神は会員を日本から追放することでこれに正当な罰を与え給うた、ということであった。というのは彼らは御地に赴いた少年たちを知っているので、御地に送られた情報のために、想いもよらないことを御地で信じ込んでしまっている、としか、彼らには言いようがない。(略)
関白殿はわれわれ全員の日本追放を命ずるに至り、われわれにはこれに対する確実な対策がない。これはすべて、イエズス会も教会も、このような窮状に際し避難できるような確固たる基地を日本に持たないところから生じている。このため、このような基地を持つことが何にもまして必要である。そしてそれには、フェリペ国王の手でこの日本国内に要塞を一つ獲得しなければならない。

 日本は、南北朝から応仁の乱へと秩序が流動していくなかで、ルターの登場がもたらした波動がキリスト教世界に奔った衝撃の渦に向き合い、16世紀を開かれた時代としました。時代の活力は、キリシタンの世界に対峙することで、17世紀に列島を一つとする秩序が可能となったのではないでしょうか。この時代が奏でる転換期の相貌は、キリシタンが他者なる存在である日本を記録した世界を読み解くとき、日常化された日本を現在読み直す手がかりを提示してくれましょう。日本・日本人なる言説が夜郎自大的に増幅している昨今、開かれた時代にみる他者認識の在り方とは何かに目をとめてみたらいかがでしょうか。