学び!と歴史

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天皇政府がめざした世界
2017.10.31
学び!と歴史 <Vol.116>
天皇政府がめざした世界
大濱 徹也(おおはま・てつや)

承前

 徳川将軍家は、各種の執拗なテロのために、統治者たる権威を失っていきます。薩摩と長州らは、テロを武器に、将軍家の政治的権威を失墜させたのです。ここに新たな統治の権威とすべく京都の朝廷が浮上してくる。かくて長州・薩摩は、朝廷が日本の統治者であることをことさらに強調し、江戸将軍家の支配に対峙できる政治的場を確立していきました。かくて京都―天皇という磁場は、将軍家が鳥羽伏見で敗退したことで、一気に強力な権力の主体となっていったのです。

統治の器である天皇

 薩長を主体とした京都の権力は、1868年(慶応4年)正月3日に鳥羽伏見の戦いに勝利したのを受け、260余年にわたる幕府の統治を武力で解体すべく、7日に徳川慶喜征討の大号令を出しました。「王政復古」といわれる権力の交替は、10日に「開国の詔」「王政復古に付外国使臣に賜う国書」で諸外国に告知されました。
 「開国の詔」は、先帝孝明天皇が「多年宸憂」、開国の可否判断に苦しんできたが、幕府の「失錯」で今日に至ったものの、「今や世態一変して」鎖国攘夷をとるわけにいかないので、「宇内の公法に基き各国の交際を開く」から「上下一致して此旨を遵奉せよ」というものです。この宣言には、幕府の開国策が孝明天皇の夷人嫌いにはばまれ、噴出した攘夷感情が横溢させた「尊皇攘夷」を「大義」とする薩長が教唆したテロが幕府の開国路線を妨害したことなど一考だにしていません。まさに京都の政権は、勝者として、凡てを幕府の失政にすることで開国、「宇内の公法」たる万国公法―欧米文明の秩序観を規定した国際法の世界に参入したのです。
 かつ「王政復古に付外国使臣に賜う国書」は外交においても天皇の親政が始まったことを告げております。

日本国天皇、諸外国帝王及其臣人に告ぐ。嚮者(さきに)将軍徳川慶喜、政権を帰さんと請いたるや、之を制允して、内外政事親しく之ヲ裁せり。すなわち曰、従前条約、大君の名称を用いたりと雖も、今より後は、まさに換うるに天皇の称を以てすべし、しこうして諸国との交際之儀は、専ら有司等に命ぜん。各国公使斯旨を諒知せよ。

天皇という存在

 まさに「換うるに天皇の称を以てすべし、しこうして諸国との交際之儀は、専ら有司等に命ぜん。各国公使斯旨を諒知せよ」との宣言は、天皇が政治の主体になったことを天下に告知したものです。この宣言は、天皇が新しい日本を統治する政治の主体者たる存在としての認知を欧米文明国に求めたものにほかなりません。ここに大久保利通は、正月23日に旧来の天皇の在り方を問い質し、新たに天皇が政治の主体者たる王者に相応しい存在になるべきだと建白します。今までの天皇という存在は、「主上の存す所を雲上といひ、公卿方を雲上人と唱へ龍顔は拝し難きものと思ひ」、天皇の貌「龍顔」は見てはならないもので、天皇の身体を「玉体」と称し、「寸地を踏玉はさるものゝ様に思食させられ、終に上下隔絶して其形今日の弊習」なのだと論難し、かく問い語ります。

主上と申し奉るものは、玉簾の内に存し、人間に替らせ玉ふ様に、纔に限りたる公卿方の外、拝し奉ることの出来ぬ様なる御さまにては民の父母たる天賦の御職掌には乖戻したる訳なれは、此御本道理適当の御職掌定まりて始て内国事務之法起る可し

 天皇が新国家を統治する政治の主体者になるには、このような「雲上」の世界に秘匿された場から出て、ひろく見られる存在になることが求められたのです。ここに天皇は、宮中から外に出かけ、貌のある目に見える統治者になろうとします。新政府は、行幸等をとおし、天皇という存在を確かなものにしていきます。

「幼弱」天皇の決意と不安

 「幼弱」の身で即位した天皇は、慶応4年3月14日に国家の基本綱領を、「五箇条の誓文」と「億兆安撫 国威宣揚の宸翰」で天下に告げ知らせました。この政治綱領は、新政府の方針を、新国家を統治する政治の主体者である天皇の想いとして説いたものです。
 とくに「国威宣揚の宸翰」は、冒頭で「朕幼弱を以て猝に大統を紹き爾来何を以て万国に対立し、列祖に事へ奉らんと朝夕恐懼に堪へさるなり」と語り、武家政権の下で「朝政衰てより」「表は朝廷を推尊して実は軽して是れを遠け億兆の父母として絶て赤子の情を知ること能はさる様計りなし、遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果」た状況から説き起こし、最後に世界における日本の姿を提示しました。日本は、世界が大きく開け、各国が雄飛している「世界の形勢にうとく旧習を固守し一新の効」をはからず、「九重に安居し一日の安きを偸み百年の憂を忘るるときは遂に各国の凌侮を受け」ている。この現状こそは、上は「列祖」を辱しめ、下は「億兆を苦し」めることとなったのだと。そこで天皇は、親らが「四方を経営し汝億兆を安撫し遂には万里の波涛を拓開し国威を四方に宣布し天下を富岳の安きに置んことを」と、天皇の国日本の明日を言挙げしております。
 この決意は、「今日ノ事、朕自身骨ヲ労シ、心志ヲ苦メ、艱難ノ先ニ立」つことで、「治蹟を勤メテコソ始テ天職ヲ奉ジテ億兆ノ君タル所ニ背カザルベシ」と負うべき天皇の強き政治的主体性による宣言です。しかし天皇は、「今日朝廷の尊重は古へに倍せしが如くにて朝威は倍衰へ上下相離るゝこと霄壤の如し かゝる形勢にて何を以て天下に君臨せんや」と、高らかに「億兆安撫 国威宣揚」を問いかけたものの、おのれの統治に不安をいだいてもいた。まさに天皇の政治的主体性は、不安にさらされていただけに、文明国家としての法的枠組みを整備し、確乎たるものに造形されていかねばならなかったのです。