学び!と歴史

「皇国」という言説

 札幌農学校に入学する新渡戸稲造は、1877年(明治10)8月17日に養父太田時敏宛書簡に蝦夷地といわれた新開地北海道に行く決意を詠んでいます。

たらつねにはやうわかれて遠国へ 行く不幸も只た皇国之為免
北国もいとわず開らく稲の花 国益を恩ひば軽ろく我が命

 「皇国之為免」なる想いこそは、戊辰敗残の南部藩士末裔として、新国家に場をしめるための「遠国」行きこそが、「国益を恩ひば軽ろく我が命」なる決意をささえたものです。まさに「皇国」日本なる意識こそは、新渡戸のみならず、欧米列強の圧力下に生きようとした青年の心をささえたものにほかなりません。
 日本列島の住民は、欧米列強の風圧にさらされていくなかで、己が邦日本とは何かを想起したとき、天皇の国「皇国」であることに国家の存在根拠を見出し、ここに列強の圧力に対峙しうる場を見出したのです。「皇国」日本なる観念こそは、圧倒的な力で襲来してくる欧米文明に対峙し、「日本人」たる「我」を確認し、その存在を確かにせしむる言説をささえました。それだけに「皇国」という言説は、天皇が政治的主体となる制度的枠組-「天皇制」が整備されるよりはやく、独り歩きをはじめていたのです。
 戊辰内乱に勝利した新政府は、福井藩に招聘されたE・グリフィスが日本滞在中に見聞した世界を「ミカド主義」として提示した『ミカド―日本の内なる力』(亀井俊介訳/1995年)に読みとることができます。

新政府には金がなく、日本には実質的統一がなく、普通の日本人には真の愛国心がなかった。どこの国に生まれたかときかれれば、日本人の素直な返事は、その事情に応じて、「越前」とか「土佐」とか「薩摩」とかであった。個人的には、国家の意識は当時非常に弱かったのである。このようなばらばらの状態では、いつ内乱が起るかわからなかった。

 まさに日本人なる存在は、人心を結合する器とてもなく、「国家」を国家とする存在の場を見出せず、彷徨していたのです。この危機意識こそは「皇国」という言葉に託して己の場を確かめさせたものにほかなりません。

政府ありて国民なし

 福澤諭吉は、このような日本の在り方をして、「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」と指摘しています。この「国民」造型という課題は、万世一系の皇統という物語にもとづく「皇国」であることを過剰なまでに強調せしめたものにほかなりません。「皇国」なる観念こそは、民族の一体性を可能とする国民国家の器となしうるイデオロギーとみなされ、「国体」の原器だと位置づけられたのです。
 この国体は、「一種族の人民相集て憂楽を共にし、他国人に対して自他の別を作り、自から互に視ること他国人を視るよりも厚くし、自から互に力を尽すこと他国人の為にするよりも勉め、一政府の下に居て自から支配し他の政府の制御を受るを好まず、禍福共に自から担当して独立する者を云ふなり」(『文明論之概略』)と福沢が説きましたように、西洋のnationalityに相当します。まさに日本のnationalityは、「皇国」なるイデオロギーを信仰にまで高めることで、はじめてを確立しえたのです。このことは、危機の時代において、過剰なまでに国体信仰を宣揚する言説を横溢せしめることとなります。それだけに日本におけるNation-stateは、民族的一体感を「皇国」の民であるという唯一性を強調することで増幅しているように、その意味で「民族国民国家」ともいうべき相貌が強く刻印された存在だといえましょう。
 いわば新政府は、この「国体」「皇国」が提示する世界をして、記紀神話が説く「万世一系」につらなる天皇の物語を見出し、西洋の君主制度を選択的に導入していくことで制度的枠組み封じこみ、日本型の立憲君主制度としての「天皇制」の構築をめざしたのです。いわば「天皇」を根軸とした国家制度、「天皇制」は日本の「文明化」と一体となって生み出されたものにほかなりません。かくて天皇は、大日本帝国憲法と皇室典範という統治制度の枠組に封じ込められることで、政治的主体者となった己の場を確保しえたのです。

人心の結集―Nationalityの器とは

 天皇という存在を国家の根軸に位置つける制度設計は、西南戦争で西郷隆盛の軍団が壊滅したことを受け、板垣退助らの国会開設を大義にかかげる自由民権派を懐柔していくなかですすめられていきました。その主導者は、「維新三傑」といわれた西郷亡き後、木戸孝允が病没、大久保利通が暗殺されたことで、伊藤博文となっていきました。
 伊藤は、新生日本を欧米文明国を範とする立憲国家とすべく、日本に相応しい憲法制定をめざしました。そこで問われたのは、日本列島に暮らす人びとの心を一つにまとめる器とは何かということでした。日本に問われたのは、「グナイスト氏談話」(1885年、伏見宮貞愛親王が聞いた講義記録)が問いかけているように、

 人間自由ノ社会ヲ成サントスルニハ一ノ結付ヲ為スモノアルヲ要ス。即チ宗教ナル者アリテ人々互ニ相愛シ相保ツノ道ヲ教ヘ以テ人心ヲ一致結合スルモノナカル可カラザル所以ナリ。宗教ノ内自由ノ人民ニ其ノ善ク適当とすべきものを可成丈ケ保護シ、民心ヲ誘導シ、寺院ヲ起シ、神戒ヲ説教シ、深ク宗旨ヲ人心ニ入ラシムルニ非レバ、真ニ鞏固ナル国を成スコトヲ得ズ。兵ノ死ヲ顧ミズシテ国ノ為メニ身ヲ犠牲ニ供スルモ亦只此義ニ外ナラザルナリ。静ニ欧州ノ内富強ト称スル国ヲ見ル可シ。先ズ寺院ヲ興シ、宗教ヲ盛ニセザルハナシ。皆宗教ニ依テ国ヲ立ツルモノト知ル可し

と、日本の人心を結合せしむる精神の器を何に求めるかということでした。
 ここに伊藤博文は、憲法制定における課題につき、1888年6月18日の枢密院の憲法審議冒頭に問いかけました。憲法の制定は、「先ス我国ノ機軸ヲ求メ我国ノ機軸ハ何ナリヤト云フ事ヲ確定セサルヘカラス」となし、「機軸ナクシテ政治ヲ人民ノ妄議ニ任ス時ハ、政其統紀ヲ失ヒ、国家亦隨テ廃亡ス。苟モ国家ガ国家トシテ生存シ、人民統治セントセハ、宜ク深ク慮ツテ以テ統治ノ效用ヲ失ハサラン事ヲ期スヘキナリ」、と。この機軸は、欧州諸国が「宗教ナル者アリテ之ガ機軸ヲ為シ、深ク人心ニ浸潤シテ人心之ニ帰一」しているのに対し、日本では「宗教ナル者其力微弱ニシテ、一モ国家ノ機軸タルヘキモノナシ」と、佛教・神道が「宗教トシテ人心ヲ帰向セシムルノ力」がない現状を指摘し、「我国ニ在テ機軸トスヘキハ独リ皇室ニアルノミ。是ヲ以テ此憲法草案ニ於テハ専ラ意ヲ此点ニ用ヰ、君権ヲ尊重シテ成ル可ク之ヲ束縛セサランコトヲ勉メタリ」と、皇室こそが人心を結合せしめる国家の機軸に相応しい存在だと説き聞かせました。
 まさに伊藤は、師グナイストの言をまつまでもなく、Nationalityの器を皇室に求め、その存在を記紀神話がかたりかける物語で潤色することで「皇国」という神話を「国民の物語」として国民精神に埋めこむことが「国家」をして国家たらしめる方途だとみなしたのです。ここに「皇国」という言説は、統治の主体者と位置づけられた天皇をして、大日本帝国憲法と皇室典範という制度的枠組みにはめこむことで可能となった国家体制の根軸となる物語の器とみなされたのです。ここに生れた「天皇制」は、「皇国」という物語をして、時代に応じて多様に増幅されていくことで、国民の心を呪縛する制度的枠組みとして根づいていくこととなります。

 

参考文献

  • 大濱「「日本という国」の容を歴史として問い質す―日本人・日本国民たる我の場とは」 『北海学園大学人文論集』63号 2017年8月