学び!と歴史

承前

 皇位は、皇室典範により、「皇男子孫之を継承」するものと規定されました。皇統は男系男子という言説は何をもたらしたのでしょうか。

皇室典範の枠組み

 皇室典範(1889年2月11日)第1章「皇位継承」は、憲法第2条を受け、次のように規定しています。

第1条 大日本国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子之を継承す
第2条 皇位は皇長子に伝ふ
第3条 皇長子在らさるときは皇長孫に伝ふ皇長子及其の子孫皆在らさるときは皇次子及其の子孫に伝ふ以下皆之に例す
第4条 皇子孫の皇位を継承するは嫡出を先にす皇庶子孫の皇位を継承するは皇嫡子孫在らさるときに限る

 伊藤博文は、第4条につき、『皇室典範義解』で「万世一系の皇統」をささえた世界は嫡庶混在の男統主義であることを宣言しております。

恭て按ずるに祖宗の嫡を先にし庶を後にするは継嗣の常典とす。但し皇緒萬世一日も曠くすべからざるが故に、既に摘出なきときは庶出亦位を継ぐことを得せしむ(皇位百二十一代にして庶出の天皇実に四十六代なり)我国の庶出を絶たざるは実に已むを得ざるに出る者なり

皇位継承の実態とは

 井上毅は、「皇室継統の事は祖宗の大憲の在るあり、決して欧羅巴に模擬すべきに非ず」(「謹具意見」)と述べ、男系に限定することで予想される「皇胤」減少に対処すべく、「従来の皇胤を繁栄ならしむる」「他の種々の方法」を提示します。ここに想起すべきは、3代将軍家光の頃より見ても、歴代天皇が庶出の天皇、側室の子であることです。

110代後光明――父後水尾天皇、生母が藤原光子、皇后源和子(東福門院)が養母
111代後西――父後水尾天皇、生母が藤原隆子、皇后源和子が養母
112代霊元――父後水尾天皇、生母が藤原国子、皇后源和子が養母、御光明猶子
113代東山――父霊元天皇、生母が藤原宗子、皇后藤原房子(新上西門院)が養母
114代中御門――父東山天応、生母が藤原賀子、皇后幸子(承秋門院)が養母
116代桃園――父桜町、生母が藤原定子、皇太后藤原舎子(青綺門院)が養母
118代光格――父典仁親王(慶光天皇)、生母が橘磐代、母は皇妃成子内親王、皇太后藤原維子が養母
120代仁孝――父光格、生母が藤原ただ子、皇后欣子内親王
121代孝明――生母は藤原雅子、養母は皇太后藤原祺子
122代明治――生母が中山慶子(一位局)、養母は夙子(英照皇太后)
123代大正天皇は、嘉仁(明宮はるのみや)で、生母が柳原愛子(やなぎはらなるこ・二位局)、皇后美子(昭憲皇太后)が養母となることで皇位を継承することができました。

 いわば皇位の男系主義は一夫一妻多妾という方策で可能になったものです。そこでは、嫡出の皇子女は命名の即日親王宣下がなされますが、庶出の皇子女は「百日或は萬一年等に於て叡慮を以て親王宣下あるべき」(1875年)とされたのです。庶出の子は、嫡子の皇位継承者がないことを確認して、はじめて皇后の養子となることで皇位継承者の地位につくことができました。
 まさに皇后御養子の儀は、「嫡庶の別を重ぜらるる国体なれば、後来嫡出の皇子降誕の目途なき時にあらざれば容易に御養子に定めらるる事これあるべからず。庶出の皇子と雖も皇胤勿論なれば嫡出の皇子存さざる時に臨て長幼の順序に任せ、皇后の御養子として嫡出に定めらるるとも更に遅きにあるべからず」とされたのです。

女帝否認と一夫一妻多妾

明治天皇の皇子・皇女一覧

 「文明国」をめざして制定された大日本帝国憲法と皇室典範が規定した皇位継承は、女帝否認論であるがために、庶子容認論であり、一夫一妻多妾制度ともいうべきものに支えられて可能となったものにほかなりません。しかも女帝の否定は、自由民権を主張した改進党系の桜鳴社が「女帝を立るの可否」を討論した際、沼間守一が「論者は言ん。女帝を立てざるが為めに、皇統絶るときは如何んと。予は直ちに之に答んとす。既往二千五百年間此事なし、爾後も亦是れなかる可きのみと。論者にして尚ほ説あらんか。請ふ。其詳を悉せ」と論じています。この論は、推古、皇極、齊明(重祚)、持統、元明、元正、孝謙、称徳(重祚)、明正、後桜町と、女帝が存在したことを故意に無視した立論です。民権論者にしても男系論だったのです。
 思うに「萬世一系」という神話は、女帝の存在によって可能になったものですが、明治維新で「天皇」を制度的枠組みの中核に位置付けていく過程で、男系主義を原則とした国家の造形を目指す潮流が色濃く投影されたものにほかなりません。ここに登場した男系主義による「万世一系」という言説は、1929年5月3日の大審院判決によって、「我帝国は萬世一系の天皇君臨し統治権を総攬し給ふことを以て其の国体と為し、治安維持法に所謂国体の意義亦此の如く解すべきものとす」と、国体の原器とみなされたのです。
 まさに皇統は男系によるとの言説は、広く一夫一妻多妾という風潮が顕在化していた時代が可能にした枠組みであることに思いをいたし、昨今の皇室をめぐる議論を考えてみたいものです。
 なお、明治天皇には、皇后美子の他に権典侍葉室光子、橋本夏子、柳原愛子(正二位勲一等、二位局)、千種任子、園祥子らの女性がおり、5皇子10皇女をなしますが、多くが夭折しました。明治天皇は、男子が嘉仁(明宮)、後の大正天皇のみであることを憂えた元老から「逸楽のため召させたまふにあらず、誠に国家に致し、皇祖皇宗に対する大孝を全う」するためだと局の活用を説かれましたが、耳を傾けませんでした。天皇も「一夫一妻」の文明の習いにさからえなかったのだといえましょう。
 しかし現行の皇室典範は、第1条が「皇位は、皇統の属する男系の男子が、これを継承する」と規定し、継承順位を1)皇長子、2)皇長孫、3)その他の皇長子の子孫云々と、皇男子と定めており、大日本帝国憲法の世界とかわりません。いわば「皇男子」という論理が声高に説かれるのは、皇位の維持が一夫一妻多妾制によってはじめて可能になったことを凝視せず、いまだ「皇国」日本の原器だとみなす「信仰」によるものといえましょう。

 

参考文献

  • 大濱『天皇と日本の近代』 同成社 2010年