「西郷どん」とは何者か 2 ―西郷隆盛の死をめぐる流言飛語は何を問うていたのか―|学び!と歴史|まなびと|日文の教育読み物|日本文教出版

学び!と歴史

承前

 西郷隆盛一党の決起は、「政府問責」をかかげた「義挙」として迎えた旧士族がいましたものの、戦火の渦にのみ込まれた民衆にとり許されぬ暴挙でした。しかし西郷隆盛という存在は、新政府の開化政策に翻弄される民衆にとり、民の心を代弁してくれるものともみなされてもいたのです。『團々珍聞』は、このような屈折した民衆の西郷によせる想いをして、「茶説(ちゃせつ)」で世間に流布した訛伝を「西郷星之説(さいごうぼしのせつ)」で紹介しております。

人皆云ふ近日東南に出(いづ)る赤星を以て西郷星と称する者は俗人のみ愚者のみ。其説を以て妄とする者は才子のみ智者のみ。且其言(こと)に曰く、星は自ら赤星のみ尋常の行星のみ固より怪むに足らず。其西郷の変身せし者となし桐野(利秋)の化精せし者となすに至ては誣誕虚妄(ふたんきょぼう)笑ふに堪たり。豈人の星と為る理有んや、之を聞さへ汚はしとして耳を洗はんとする許由(きよゆう)先生何ぞ其聞見の浅き胸次(けふじ)の狭きや、余を以て之を観るに其始めて西郷星の説を唱へ出せし人は識者なり通人なり、之に雷同訛伝(らいどうくわでん)するものは愚夫なり児童なり之を駁攻排撃(はっこうはいげき)するものは浅陋(せんろう)なり凡庸なり。夫名士高人の星辰となり列宿に応ずる者(26号 明治10年9月15日)

として、李白が「太白星」にジュリアスシーザーの「怨魂」が天にあらわれており、「紀元緒の年に赫々として日光を奪ふが如き彗星出で教祖生ると云う」とイエスの誕生等々にふれ、偉人英傑が星となってあらわれたという古今東西の話を紹介し、西郷星に託された世界を論じています。

「西郷星」に託して西郷の事蹟を告発す

 「星」となった西郷隆盛は、戦乱が巷に飛び散ったがために、「狂乱」した姿が辛辣な筆致で描かれています。西郷星は、「干戈」武器をつかって多くの血が流されたから、赤いのだとの言を聞いてみましょう。

今西郷暴士は私学星(私学校の生徒)を鎔冶(ようや)して不軌を図り、近国の蜂起星(ほうきぼし)を糾合して新星(しんせい 新政)攻毒(こうどく)の正札を附け西南より東北の方に出現し、大星府(だいせいふ 大政府)に向て闇殺(あんさつ)の廉を尋問し、其邪星(じやせい 邪政)を分ち星体(せいたい 政体)の非を矯さんなどと斗方(とほう)も無き虚星(きょせい 虚勢)を売だしたるに因て、星討(せいとう 征討)の大師を発し百戦の後竟に鎮星(ちんせい 鎮静)の際に及び、賊星(ぞくせい 賊生)大半降伏離叛したるより、巨魁(きょかい)の破軍星(はぐんせい 破軍勢)四海の内身を容るる所なく、魂魄已に天外に飛び世間に対して白昼横行し難き故、夜々暗(あん)に紛れて顔を出すこと疑ふ可らず、其東より南に運(めぐる)るは、初め東京に在て庿堂(びょうどう)の高坐を占め、後本国に帰て躬(みづから)耕し糞桶を担いだる故なり。其色赤きは干戈を動かして、滾(こん)々の血を流せし故なり。其謂れあること亦斯の如し。之を是れ信ぜずして俗説となし、傳会(ふくわい こじつけ)となす者は識無く学無く凡庸の徒たること明矣(あきらけん)。夫れ訛言の興る古より之れ有り詩に曰く民の訛言曾て之を懲すこと莫し。妖言童謡は意無くして言に失ふ其事後に験(しるし)多

 赤く輝く「西郷星」一件は、維新革命を主導し、新政府の実力者となるものの、政策が入れられずに故山にもどり、西郷の下に集う青年に擁立されて叛乱に奔る血塗られた物語として、諧謔を交えた文体でかたられたものです。ここには、「偉人」西郷が負わねばならない宿業をみつめ、その戦乱への怒りがあります。この怒りは何故に西郷は戦争を起こしたのだという問いとなっています。

鹿児島県の人の話

鹿児嶋暴徒追討記〔田原坂の戦〕<国立国会図書館ウェブサイトから転載>

 西郷は、「身を殺しても世の中のためを思ふ」て戦争したのだと、鹿児島県人が話していると『團々珍聞』が紹介しています。この話は、巷の風聞を「鹿児島県人」のうわさ話として創作した類のものでしょうが、不景気な日本を救うための口減らしと、「西郷札」一件にも言及し、「世直し」ともいえる世の不景気救済策であったと指摘することで、政府の無策に一矢報いております。

口を減すは人を殺すより外なく、人を殺すは戦争をするに限る、軍(いくさ)は勝ても負ても世の中の人は減る、せめて十万人を減すと一箇月一人の掛りを三円と見込でも月に三十万円年には三百六十万円は違ふからとて、大食な銭遣ひの荒い若者を扇動(おだてて)戦ひを始めた所が、見込違ひ、官軍と賊で死傷三万人前後だから一割程の人も死なぬ故、是ではならぬと印度の地方え伝染病をかけ亜細亜虎列刺(あじあころり)を呼よせ、先鹿児島で病ひを試し、些(ちと)ばかりでも死だのを見届け、是なら宜と安心し、城山で自分も往生、其処で虎列刺は九月から十月の二十日までに全国の死人が三千七百人、是も思ふ様に往なかつたが、しかし軍のために世間へ落とした金の高は政府(おかみ)斗(ばか)りも四千四百六十三万八千零九十八円九十二銭六厘だといふから、西郷の拵らへた札高24万円引ても四千四百三十九万八千円故それに夫にかかり合て銭を取た者は大助かり、さすが豪傑だけあつて妙な処え気の附く人だと西郷を誉ちぎつて居ました(34号 明治10年11月10日)

 ちなみに西南戦争は、軍艦10余隻2100人、陸軍5万2200人、屯田兵600人、巡査隊1000人など計6万6000人、その他予備軍6万3000人、東京巡査破件700人、戦費4156万円だと、『明治・大正家庭紙年表』(河出書房新社 2000年)が紹介しております。かつ、9月にはコレラの流行で「妙薬」として評判が高かった石灰酸(カルボニックアシッド)が売り切れた由。12月28日には内務省がこれら予防のため、便所・下水などの清掃法を示達しております。

時代の気分

 西南戦争は、「百姓軍隊」と揶揄嘲笑されていた徴兵軍隊が戦力として活用できることを証したものの、民衆に戦闘が死を、戦死というものを強く実体験させ、死の恐怖にさらしたのです。そのため戦争終結後には、徴兵忌避の機運がたかまったがため、分家・分籍・嗣子変更等を出願しての徴兵忌避をしないようにとの布達が出され、徴兵忌避者のための診断書をみだりに発行しないようにと医師の取締が強化されたのです。 「西郷どん」西郷隆盛は、日本人好みの「英雄」と喧伝されてきましたが、同時代人の眼には「無益」な戦乱で民衆を塗炭の苦しみに追いやった張本人だと映っていたともいえましょう。時代の空気に寄り添い、時代を追体験して歴史を読むには、『團々珍聞』が描き出した世界を場に、歴史の闇を問い質す作法も必要ではないでしょうか。

 

●西郷札とは、西郷軍が軍資金の不足を補うために発行した不換紙幣。実効支配地で軍事力で強要していくらか流通したが、西郷軍の崩壊で無用の紙切れとなった。後に西郷隆盛の人気で「お守り」として大切にした者もいた。なお松本清張が作家としての登場は西郷札を素材にした『西郷札』。