学び!とPBL

学び!とPBL

PBLのはじまり③
2018.07.20
学び!とPBL <Vol.04>
PBLのはじまり③
三浦 浩喜(みうら・ひろき)

 今回はPBLそのものの実践や考え方から少し離れますが、私なりにPBLの必要性を痛感した原点ともいえるエピソードです。東日本大震災です。

1.東日本大震災と子ども支援ボランティア

図1 避難所の小学生が学校から帰ってくる

 2011年3月11日のその日、私は愛媛に出張しており、大学に戻れたのは5日後のことです。当時学部の執行部にいた私は、連日1000人を超える学生の安否確認に追われました。同時に、大学内に開設した避難所の運営を補助したり、交通網が寸断されキャンパスに取り残された学生の帰省を手伝ったりしました。また、延々と続く全学の危機対策の議論に忙殺されていました。原発事故の影響でキャンパスからも高線量が観測され、内心「結局は全てが無駄になる」という絶望感に打ちのめされました。一方で「歴史は福島に文明の転換点となる教育を求めている」という一つの信念を胸に刻んで、自分自身に鞭打ち今日に至るまで過ごしてきました。

図2 子ども支援ボランティアの様子

 大学が再開する前の5月の頭から、120人あまりの学生と教員が協働して、福島市や郡山市に避難してきた子どもたちを学習支援するボランティア活動を始めました。この活動は約2年間続くことになりますが、組織的なボランティアが初めてで、避難所や仮設住宅の状況は刻々と変わり、まさに試行錯誤の連続でした。避難所の情報はほとんどあてにならず、避難所に行っても子どもが一人もいないこともよくあり、自分たちの目と耳と足で必要な情報を整理するしかありません。避難者とのニーズが合わず、迷惑がられることもありました。被災者にとって、こちら側の計画などは何の役にも立たず、柔軟に現場のニーズに合わせるしかないということすら、その当時はわかりませんでした。学生たちは自分の就職試験を控えているにもかかわらず、ギリギリまでボランティアをがんばり抜きました。「目の前の子どもたちを置いて、自分が教員になることが想像できなかった」と言いました。

2.福島の子どもと学校

図3 仮設住宅での子ども支援活動

 避難してきた子どもたちは「悲惨」でした。「目に見える悲惨さ」は、初期段階では至る所で目にしましたが、時間とともに一定程度は解消されていきました。問題なのは「見えない悲惨さ」です。子どもたちは、家族が離散したり、「さよなら」もなく親友が引っ越していったり、信頼できるボランティアに去られたりしました。自分たちを見守ってくれる温かいまなざしを失い、人間関係は極度に断片化していました。一応は住むところがあり、食事も欠くことなく、学校にも通いはしましたが、「機能」がそろえば満足できるというような単純なものであるはずがありません。加えて、福島の子どもたちは一時期、土や植物すら触れることができず、自然学習はビデオで、水泳は教科書で学習することしかできませんでした。被災地の子どもたちの最も悲惨な部分は、このように、人間や社会、自然との本来あるべき関係性がことごとく崩れてしまった点にあります。

図4 大学に子どもたちを招待してのクリスマスパーティー

 福島県内の多くの学校もまた極度の混乱の中にありました。津波と原発事故の被害を受けた学校は校舎が使えず、住民の避難先の地域でなんとか学校を開設しました。50人しかいなかった避難先の小学校に100人近くの児童が区域外就学してきたり、一つの校舎に三つの学校が同居したりするケースも起こりました。放射能汚染の少ない地域に高校のサテライトを設置し、生徒たちは劣悪な環境の中で高校3年間を送るしかありませんでした。就学先でいじめに遭ったり、学校に適応できず不登校となったりする子どもたちもおり、転校を繰り返すうちに単元まるごと未履修という状況も起こりました。
 全ての学校が混乱していたのかというと実はそうではなく、震災の影響を受けている学校とそうでない学校が一つの街の中で混在していました。「外からの励ましのメッセージへの返事ばかりも書いていられないし、街中は混乱している時に漢字の書き取りをやらせていいのかと思うが、しかし他にやることがない」と、教え子の教師が言います。この時に、日本のカリキュラムは平常時のモードと緊急時のモードしかなく、その間がないということに気がつきました。学校が持っている「固さ」とは、ここなのだと思いました。

3.震災がもたらした「希望」

図5 土曜子どもキャンパス(キャンパスで遊びと学び支援)

 震災のもたらした混乱はまた、新しい希望も与えてくれました。
 第一に、多くの被災地の学校が避難所を開設し、わが身を犠牲にして教員が避難者をケアし、児童生徒が元気に被災者のために働き、学校は命を守る砦として機能したことです。
 第二に、多くの学校教員や教育行政の人々が「本当に必要な教育とは何か」を真剣に考える機会となったことです。これまでの教育が「これらを学べば立派な大人になるはず」という予定調和的に組み立てられていたが、そうではなかったということです。
 第三に、学校を取り巻く環境が大きく変わり、教員が集団で課題に取り組んだということです。例えばある学校では、避難先で校長室を確保できず、校長先生も職員室の一員となり、一緒に問題解決に取り組んだということもありました。

 こうした私たちの経験は、2011年から数年間の、東北の被災地や福島に限定された意味しか持たないのでしょうか。決してそうではないと思います。世界は今多くの複雑で困難な課題に直面しており、年々深刻になってきています。東北や福島は、そうした問題を一足先に体験したに過ぎない、というのが私も含めた多くの人々の認識です。