ブックタイトルどうとくのひろば No.26 教科書特集号

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概要

どうとくのひろば No.26 教科書特集号

心に残っている道徳の授業は?〈その3〉ちょっと聞いてみたいギモンに経験をもとにお答えいただきました。授業のヒントになったり,励みになったり。これからの道徳の授業に生かせる何かが見つかるかもしれません。誤解「説話は人なり」といわれる。道徳授業における説話とは,自己の体験談や願い,または社会的な話題を,教師から児童生徒に語りかけるものである。その中でも特に,教師自身の体験談は,生徒たちの心に直接的に働きかけ,実感をもって人間としての生き方についての自覚を促すものである。しかし,それだけに難しい。ここで,一生忘れることのできない説話を紹介したい。読み物教材「背番号10」(『中学校道徳 読み物資料集』文部科学省)で,甲子園球児であった若手教員をゲストティーチャーに招き,授業を行ったときのことである。綿密な打ち合わせをもとに授業は進み,照れ臭そうに登場した若手教員の姿を生徒たちがニコニコしながら眺める中,いよいよ説話が始まった。するとどうだろう。それまでの和やかな空気が一変した。甲子園に夢をかけて努力を重ねたこと,仲間との絆,苦しみを通しての喜び,そして最後に周りの人々への感謝の思い。信念に貫かれたその生き方に,生徒たちは息をのんだ。目をうるませながら次々に語られる熱い思いは,生徒や私の心にまで深くしみ込んできた。そして,最後に掲げた甲子園の土の入ったボトルに,生徒の視線は釘づけとなった。中には涙ぐんでいる生徒もいた。「たった数分の説話が,生徒の一生を変えることもある。」私はそのときそう思った。説話が独善的な道徳的価値の押し付けではなく,児童生徒の心の琴線に深く働きかけるものであれば,それは心情陶冶に大きな役割を果たすものである。まぶしいほどの威厳に満ちた若手教員の姿が,今も私の脳裏に焼き付いて離れることはない。きっと当時の生徒たちも私と同じ思いを抱いていることであろう。「家族愛」をテーマにした授業の思い出です。20 年くらい前ですが,当時先進校ではゲストティーチャーを招いた授業を行っていましたので,私も取り入れてみようと思い,保護者を招いて「子どもが生まれたときの親の思い」を語ってもらうこととしました。親の思いを手紙にし,それを代表で1 名の保護者に読み上げてもらうのです。ほかの生徒には事前にそれぞれの保護者から提出していただいていた手紙を配り,各自で読んでもらうこととしました。ここで,準備の段階で越えなければならない壁がいくつか発生します。いちばんの壁は,この趣旨をクラス全員の保護者に了解していただき,実際に手紙を書いていただいて,授業が始まる前に集めておくことでした。もし,生徒全員分の手紙が集まらなかったらこの企画は中止する心づもりでしたが,こちらの心配をよそに比較的早い段階でクラス全員分の手紙を集めることができました。次の壁は,実際に授業で手紙を読み上げてもらうことを,その生徒本人と保護者に了解していただくことです。こちらも了承され,準備OKです。このことはほかの生徒には内緒にしておきました。この授業は,学校参観日で多くの保護者が来校されているときに行ったのですが,代表の保護者の朗読が始まると,あちらこちらからすすり泣く声が聞こえてきました。参観していた保護者たちが目頭を押さえ始めたのです。そんな雰囲気の中で,クラスの生徒全員にそれぞれの保護者からの手紙を渡しました。そこに書かれている内容はわかりませんが,当時生活指導面で手を焼いていた生徒が,神妙な面持ちで保護者からの手紙を読んでいた光景は今でも記憶に残っています。東京都豊島区立西池袋中学校 統括校長 江川 登児童生徒の心を揺さぶる教師の説話 元埼玉県さいたま市立大門小学校 校長 石黒 真愁子親の思いを伝える授業以前,天王寺動物園でニホンザルを展示していた頃のことですが,ニホンザルを見ているお客さん同士の会話の中に「ボスザル」という言葉がよく出てきました。「あれが大きいから,ここのボスザルやなあ。」とか「しっぽをピンと立てているから,あれがボスザルかなあ。」とかです。きちんと訂正の説明をしていたこともあったのですが,あまりに頻繁なため諦めました。ニホンザルにボスザルという存在などないのです。動物の生態を研究するには,その動物の一頭一頭をしっかり識別して観察することが不可欠なのは言うまでもありません。しかし,野生の動物は研究者の接近を簡単には許してくれません。初期のニホンザルの研究者はこの第一歩をクリアするためかなり苦労されたようです。そこで思いついたのが「餌付け」です。どんな動物も食べ物の魅力に抗うことはできません。研究者がまいて与えるエサにニホンザルが集まり始め,ついには研究者がいても平気でエサを食べるようになりました。観察がしやすくなって研究は飛躍的に進んだのですが,この餌付けが大きな誤解を生むことになりました。エサをまく場所はそんなに広くはありません。そのため体が大きく強いオスがその場を占領し,エサ場への接近はメス以外許しません。その振る舞いは人間社会におけるボスのように見えたため,ボスザルと名づけられました。しかし,自然の状態ではそのように特定の場所だけに食べ物が集中するようなことはないのです。サルが食べる果実や木の実,木の葉は森や林のあちこちに散らばって存在するため,独り占めなどできません。メスも一か所に集まるようなことはありませんから,これも独占のしようがないのです。つまり研究者の目の前で展開するニホンザルの行動は,餌付けという自然な状態とはかけ離れた特殊な状況での行動だったのです。このことに気づいたその後の研究者は,餌付けではなく,ヒトの存在に馴らせる「ヒト付け」をし,自然な状態で観察する方法に変えました。これにはとても大きな苦労と努力を伴ったのですが,そのかいあって正しくニホンザルの行動を解析できるようになり,ボスザルという存在はニホンザルの群れの中にはない,ということが明らかになりました。しかし,ボスザルというネーミングはとてもキャッチーだったのか,日本人のボキャブラリーの中にしっかり定着してしまったようです。この誤解を訂正するのはなかなか骨が折れ,とても時間がかかりそうです。▲ニホンザルにボスザルは存在しません。18 19