ブックタイトル中学社会 見方・考え方はこう働かせる

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中学社会 見方・考え方はこう働かせる

   次改訂の『中学社会』においては,上記のような学習指導要領の趣旨を踏まえて,魅力的な授業づくりに向けた具体的指針を示し得る紙面の構成を企図して,見今象を考察することなどが,その具体的なあり方として示されている。 しかし「主体的,対話的で深い学び」の実現に向けては,これらの視点や方法をただ機械的に取り入れただけでは,形式的な授業改善に留まってしまう。それらを活用することで,深い思考を促す魅力的な授業づくりを志向する必要がある。歴史的分野においては,変化に着目して比較したり,事象同士の因果関係に着目して考察したりするなどして,事象の歴史的な意味や意義,時代の特色や時代像に迫っていくことで,歴史についての深い理解に導くような意義ある授業を構想したい。▲ 歴史P.118-119   017(平成29)年に告示された中学校学習指導要領では,「見方・考え方」を働かせた学習を行うことで,生徒たちにとって意義のある学びの実現が求められている。 社会科における「見方・考え方」は,社会的事象について探究する際の「視点や方法(考え方)」とされており,歴史的分野の場合は,「社会的事象の歴史的な見方・考え方」として,時期,年代など時系列に関わる視点,展開,変化,継続など諸事象の推移に関わる視点,類似,差異,特色など諸事象の比較に関わる視点,背景,原因,結果,影響など事象相互のつながりに関わる視点などが示されている。そして,それらを働かせた学習として,時期,推移などに着目して比較し,類似や差異などを明確にしたり,事象同士を因果関係などで関連付けたりするという方法(考え方)を踏まえて社会的事12341234「歴史的な見方・考え方」とは教科書に示した「歴史的な見方・考え方」の働かせ方2第4 編 近世の日本と世界浅井桶狭間の戦い(1560年)おけはざま 堺石山本願寺毛利島津長宗我部山崎の戦い(1582年)やまざきしま づもう り徳川とくがわ上杉うえすぎ伊達だ て北条ほうじょう柴田しば た明智あけ ちあざ い朝倉あさくら延暦寺えんりゃくじ武田たけ だちょうそ か べいしやまほんがん じ一向一揆いっこういっき長篠の戦い(1575年)ながしの1582年1585年1586年1586年1590年1587年京都きょうと安土あづち0 200km1560年ごろ1582年ごろ信長にほろぼされた主な勢力信長軍の進路秀吉にほろぼされた主な勢力秀吉に服従・降伏した大名ふくじゅう こうふく信長の領域のぶなが りょういき年次は服従・降伏した年秀吉軍の進路1586年2 織田信長・豊臣秀吉の勢力の広がり  資料活用 P.97 6と比べてみましょう。資料活用秀吉は,刀狩を行う理由をどのように説明しているか読み取りましょう。豊とよ臣とみ秀ひで吉よし(1537~1598)(大おお阪さか府 逸いつ翁おう美術館蔵)1た。収しゅう穫かく高だかは,全国どこでも同じ大きさのますで測られ,石こく高だかで示されました。秀吉が全国で行った検地を,太たい閤こう検けん地ち といいます。 太閤検地の結果,検地帳に記された百ひゃく姓しょうは,その田畑を耕作する権けん利りを認みとめられ,定められた年ねん貢ぐを村ごとに領主である武士に納おさめることになりました。武士は,その領地を石高であらわされ,石高に応じて軍ぐん役やくを負ふ担たんすることになりました。こうして,公く家げや寺社は,それまで荘しょう園えん領主としてもっていた田畑に関する権けん利りをすべて否ひ定ていされ,勢力を失いました。秀吉は,刀かたな狩がりを行って,百姓から刀・弓・やり・鉄てっ砲ぽうなどの武器を取り上げました。刀狩と検地によって,一いっ揆きなどの百姓の抵てい抗こうを防ぎ,武士と百姓とを区別する兵へい農のう分ぶん離り を進めました。さらに,百姓が田畑をすてて武士・町人(商人・職人)になることや,武士が百姓や町人になることなどを禁止しました。武士と町人は町に,百姓は村にというように,住む場所も固定しました。こうして,武士と百姓・町人との身分のちがいをはっきりさせて,近世社会のしくみを整え,武士による支配を固めていきました。 また,秀吉は,初めはキリスト教を保護しましたが,長なが崎さきがイエズス会の領地になったことなどから,国内統一のさまたげになると考え,宣せん教きょう師しを追放する命令を出しました。17 26 34P.708P.113刀かたな狩がり東とう海かい・近きん畿き・北ほく陸りく地方をほぼ統一した織お田だ信のぶ長ながは,武たけ田だ氏をほろぼした後,中ちゅう国ごく地方の毛もう利り氏を討うとうとしました。しかし,家か臣しんの明あけ智ち光みつ秀ひでに攻せめられ,京きょう都との本ほん能のう寺じで自害しました。信長の家臣の豊とよ臣とみ秀ひで吉よしは,山やま崎ざきの戦い(京都府)で光秀をたおして信長の後こう継けい者しゃとなり,次いで四し国こく・九きゅう州しゅう,さらに関かん東とう・東とう北ほく地方の大名を従したがえて,1590年に全国統一をなしとげました。その間,秀吉は,全国に200万石ごくをこえる領地をもつようになり,大おお阪さか・京都・伏ふし見みに城しろを築いて,全国の金山・銀山を支配下におきました。さらに,関かん白ぱくの地位について,天てん皇のうの伝統的な権けん威いをも利用して政治を行いました。 信長は安あ土づちに,秀吉は京都の伏ふし見み(のちに桃もも山やまとよばれた)に城を築いたので,この時代を安あ 土づち桃もも山やま時じ 代だいといいます。秀吉は,ますやものさしなどの基準を統一し,役人を全国に派は遣けんして,田畑の面積をはかり,土地のよしあしや耕作者を調べさせ,村ごとに検地帳を作成しまし12 34P.545太たい閤こう検けん地ち秀吉はどのような社会をつくろうとしたのか,百姓や町人に対する政せい策さくから説明しましょう。確認豊とよ臣とみ秀ひで吉よしの全国統一学習 課題見方・考え方太たい閤こう検けん地ち と刀かたな狩がりが,何をどのように変化させたのかに着目しましょう。武士である秀吉が百ひゃく姓しょうや町人に対する支配を重じゅう視ししたのはなぜでしょうか。大阪城(大おお坂さか夏の陣じん図ず 屏びょう風ぶ  大阪城天てん守しゅ閣かく蔵) 秀吉が全国の大名に築城を手伝わせました。4検地に使われたものさし(検地尺じゃく 鹿か児ご島しま県 尚しょう古こ 5 集成館蔵)検地のようす(秋あき田た 県 玄げん福ぷく寺じ蔵)江戸時代の検地のようすです。71589年の検地帳(熊くま本もと県立図書館蔵)6比較なぜ,秀吉が行った事業を全国統一というのでしょうか。深めよう石は体積ですが,1石を重さにすると米約150㎏です。田だけでなく畑や屋や敷しきも米の石高であらわされ,年貢が課されました。太閤は関白をやめた人のことで,ここでは秀吉をさします。百姓は,多くは農民ですが,村に住む漁民や山の民や職人も含ふくまれます。武士が将しょう軍ぐんや大名に対して負う,軍事上の負担です。1234武士が政治の実権をにぎった時代のうち,安土桃山時代と江え戸ど時代を近世といいます。( P.72中世)基本用語 近世小学校 学習した人物:豊臣秀吉3 信長・秀吉の全国統一までのあゆみ年できごと1543 鉄てっ砲ぽうが伝来する1549 キリスト教が伝来する1560 桶おけ狭はざ間ま の戦いで今いま川がわ義よし元もとを破る1569 堺さかいを支配下におく1570 一いっ向こう一いっ揆き との戦い(~80)1571 比ひ 叡えい山ざん延えん暦りゃく寺じ を焼き討うちする1573 室むろ町まち幕ばく府ふ をほろぼす1575 長なが篠しのの戦いで武たけ田だ 氏を破る1576 安あ 土づち城じょうを築く(~79)1577 安土城下に楽らく市いち・楽らく座ざ政策1582 本ほん能のう寺じ の変(信長没ぼっす)山やま崎ざきの戦いで明あけ智ち光みつ秀ひでをたおす太たい閤こう検けん地ち を始める(~98)1583 大阪城を築く(~88)1585 関かん白ぱくとなる1588 刀かたな狩がり令を出す1590 全国統一を果たす信長が行ったこと秀吉が行ったこと織お田だ信のぶ長なが・豊とよ臣とみ秀ひで吉よしは,どのような勢力と戦っているかな。1尺しゃく(約30cm)一  百姓が刀・わきざし・弓・やり・鉄砲,その他の武具を所持することを固く禁止する。その理由は,不必要な武具を持つと,年貢を納めずに一揆をくわだてることになるので,大名と家臣は,百姓の所持する武具をすべて取り上げ,秀吉に差し出すこと。一  百姓は,農具を持ち,耕作だけを行っていれば,子々孫々まで長く続くであろう。(『小こ早ばや川かわ家け 文もん書じょ』より一部要約)8 刀狩令田畑の中ちゅう田でん 七畝せ 拾( 十)五歩 九斗と源げん左ざ衛え門もん尉じょう?等級? ?面積? ?収穫高??耕作者?秀ひで吉よしによる全国統一-近世社会の基き礎そづくり-4118 119世紀B.C.A.D.123456789101112131415161718192021時代旧石器縄文弥生古墳飛鳥奈良平安鎌倉南北朝室町戦国江戸明治昭和平成令和安土桃山大正5101551015204