ブックタイトル小学校道徳 沖縄県郷土資料集

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概要

小学校道徳 沖縄県郷土資料集

*太平洋戦争一九四一年十二月から、日本がアメリカやイギリスなどと戦った戦争。日本が降伏した一九四五年八月まで続いた。*疎開戦争による被害をさけるため、安全と思われる地方に避難すること。*国民学校一九四一年につくられた、小学校に代わる学校。生き続けた糸数さん■対馬丸■いかだに乗って助けを待つ人たち わずか十分で消えた千四百名あまりの命 これは、太平洋戦争中に起きた対馬丸事件の生存者である、糸数裕子(旧姓石川裕子:当時二十一才)さんのお話です。 糸数さんは当時、沖縄国民学校の教師でした。沖縄が戦場になってしまう前に、子どもたちを少しでも安全なところへ避難させようと、教え子たちの家を訪ねては、親たちに疎開させるよう説得して回りました。 そして、一九四四(昭和十九)年八月二十一日、疎開者千六百名あまりを乗せた対馬丸は、大勢の親たちが見守るなか、四せきの船とともに那覇港から長崎へ向けて出発しました。 翌日、夜十時十二分ごろ、鹿児島県トカラ列島の悪石島北西約十キロメートルの地点で、対馬丸はアメリカ軍の潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け、沈没しました。攻撃は、乗船者の多くが寝静まった夜のできごとであり、わずか十分足らずでしずんだため、ほとんどの人が船中からにげ出せず、海の底へとしずんでいきました。また、船から脱出できた人も、接近中だった台風の高波にのまれて、多くが犠牲となりました。 命を落とした教え子と、命を救われた糸数さん 糸数さんは、いかだの上で高波にさらわれないように必死にしがみつきながら、一昼夜を過ごしました。そして、運よく近くを通りかかった漁船に助けられ、命を救われました。しかし、糸数さんが引率した十三人の教え子たちはみな、対馬丸とともに海の底へしずんでしまいました。 糸数さんは、救出されたあとの一年数か月あまり、漁船でたどり着いた宮崎県で、教師の仕事を続けながら生活をしていました。当時、対馬丸沈没のことは日本軍から秘密にするよう命令されていました。五年生**そいと かずよくじつせんすいかんぎょらいこうげきちんぼつこうげきねだっしゅつせっきんか ご しまあくせきじまぎ せいすくいとかずいとかずすいとかずいんそつつしま まる じ けんこきゅうせいいしかわみつこせいぞんいとかずみついとかずみやざききょうしきゅうしゅついとかずおきなわ* きょうしひ なんたずしょうわかいつしま まるつしま まるつしま まるちんぼつひ みつつしま まるそ かいおおぜいな はながさきこうふくひがいひ なんそかいつしま まる37 3610 515 10 5