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概要

教育情報No.7

特集夢と挑戦、キャリア教育目標(夢)に向かって力強く土屋ホームスキー部選手兼監督葛西紀明SAJ27承認第00299号世界も認めるレジェンドソチオリンピックの年、私は10年ぶりのW杯優勝を果たした。41歳7か月の勝利はスキージャンプ界の歴史を覆す出来事だ。私はオリンピックのメダルももうすぐだと思った。メダルの方からやってくる、そんな気がした。そして、ついにオリンピック当日がやってきた。朝食前に散歩に出て、遠くに広がるソチの山々を見ながらイメージトレーニングを重ねた。リラックスして過ごしたあと、午後からは軽い筋力トレーニングで体の調整。午後7時ごろ一人で会場に向かった。いよいよ私の番の1本目がきた。助走、サッツのタイミング、空中姿勢、何もかもがイメージ通りだった。飛距離は139メートル、得点は140.6。2位につけた。2本目。私は集中し、すべてがかみ合ってもいた。飛距離は133.5メートル、得点は136.8。最後の一人カミルを残して飛び終わった。そしてカミルは132.5メートルを飛んだ。結果は、2本目の飛距離も得点も、私はカミルをわずかに超えた。それでも1.5ポイントしか上回ることしかできず、わずか1.3ポイントの差で金メダルを逃した。金メダルに匹敵する結果だった。「ク・ヤ・シ・イ!」と私は叫んだ。最大のチャンスだったので、本当に悔しかった。しかし、ついにオリンピックで初めての銀メダルを獲得した。うれしさがあふれるようにこぼれてきた。私は7度目の、2014年ソチオリンピック後、3つの「ギネス世界記録」に認定された。「冬季五輪最多7度出場」、「41歳219日、W杯最年長優勝」、「ジャンプ種目の冬季五輪最年長メダル」の3つだ。こうして私はレジェンドになった。人は成SAJ27承認第00300号功してもどこかでまた3つのギネス世界記録に認定された失敗するだろう。失敗し最下位に落ちても、諦めずに努力し続ければ必ずよみがえることができるのだ。もっと遠くへ、ジャンプとの出会い私は、1972年、札幌オリンピックの年に北海道北部の内陸の町、上川郡下川町に生まれた。スキージャンプで有名な町だ。亡くなった母の話では、小学校に上がるまでは月の半分は病院へ通っていたほど病弱な子どもだったそうだ。小学校に上がるころからは健康になったので、山や川を飛び回っては、自然を相手に遊んでいた。父に勧められ、マラソンも始めた。冬はもちろんスキー。家の裏にあるスキー場にはジャンプ台が4つ設けられていて、冬になると、ここが遊び場だった。私の柔軟な体と足腰のバネは、下川町の自然に培われたようなものだ。スキージャンプとの出会いは、小学校3年生の冬。友達に誘われてジャンプ台のスタート地点に立ったときだ。「ウワァ!怖いなぁ~」アプローチを見下ろしながら、友達と二人で叫んでいた。ものすごく怖いけど、飛びたい。怖いけど、どこまで飛べるのだろうっていう冒険心があった。結局、「よし、行っちゃおう」と着地の方法も知らないまま滑り降りていた。ほんの一瞬、空を舞っているような気分になり、ものすごく楽しかったのをよく覚えている。初ジャンプで競技のおもしろさを知ってしまった私は、両親に隠れてジャンプを始め、どんどんのめり込んでいく。「もっと遠くへ飛びたい」、その一心だった。今でもフライングヒル競技は怖いが、あのときと同じ興奮に包まれる。「どこまで飛んでいけるのだろうか、どこまでも飛んでいきたい」と。多くの人々に支えられてジャンプ少年団に所属し、下川町主催のスキー大02No.7