ブックタイトル教育情報No.7
- ページ
- 6/8
このページは 教育情報No.7 の電子ブックに掲載されている6ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 教育情報No.7 の電子ブックに掲載されている6ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
教育情報No.7
特集夢と挑戦、キャリア教育「挑戦そして前進」文楽の太夫豊竹咲寿大夫使えないけれど、手作りで挑む発表会はぼくたちの舞台なのだ。ぼくは正面の幕が開くのを感じて、客席を見据える。さあ、やろう。ぼくたちの集大成だ。これが、この高津小学校で学んだすべてだ。ぼくたちの、文楽ぼくたちは円陣を組んだ。それは、体育館の舞台袖である。もうすぐ幕が開くのだ。照明はすべて落ちており、そばで先生が懐中電灯を照らしている。この先生は「学校の」先生である。今日の発表会に向けて、ぼくたちは四月から七か月間、夏休みも返上して毎日お稽古に明け暮れた。大丈夫、絶対に成功する。不安が夜の闇のように這い寄り始め、班長の女の子が啜り泣き始めた。リーダーが泣いちゃあ駄目じゃないか、と思いながらも背中を撫でて落ち着かせる。「がんばろう」誰からともなく、皆、それぞれにつぶやいた。拍子木が高らかに体育館に鳴り響き、ぼくたちは舞台に繰り出す。舞台は二つから構成されている。正面の舞台と、舞台上手から客席側に張り出した花道のような「床」と呼ばれる舞台である。ぼくたちが足を踏み出したのは、床のほうだ。この床は、管理作業員のおじさんたちが組んでくれたものだと言っていた。魔法のようだった。まず目に入ったのは、いつもは視界に入ってくることのない、スポットライトだった。夜の月のように煌々と輝いていた。そして、視線を下におろすと、一年生から五年生の後輩たちが「今から何が始まるんだろう」という目でぼくたちを見ていた。それもそうだろう。六年生かたぎぬが着物姿で、時代劇のような肩衣と袴を付けて出てきたのだから。後輩たちの後ろには、児童の保護者や近所の市場で挨拶をするおじさんやおばさんがいた。紺色の制服、好奇心にあふれた視線、大きいはずなのに上から見ると小さい大人たち。それらすべてが、夜空のビロードを埋め尽くす星々のようだった。床は特別製で、ひな壇のようになっていた。下の段に三味線を構えた児童が正座した。ぼくたち「太夫」は上の段である。見台という小さな机のようなものの前に正座した。しかもただの正座ではない。尻引きというお風呂の椅子に似たものをお尻の下に置き、爪先立ちをするかのごとく足の親指を立てて正座するのだ。これが、痛い。この尻引きも管理作業員さんが作ってくれた。ぼくたち一人ひとりの足のサイズを測って作ってくれたのだ。見台は、文楽の先生が本当の舞台で使っているものは漆塗りで重厚感のあるものだが、ぼくたちの見台は木で作られた譜面台のような雰囲気である。そりゃあ、先生は学校の先生じゃなくて本物の演者さんだもの、同じものは伝統芸能、文楽。ぼくたちの、文楽私は恐ろしいほどに落胆してしまった小学校の総合学習で文楽を学んだことが、私の羅針盤の方角を寸分の狂いもなく定めてくれた。能、文楽、歌舞伎と世界遺産にまで登録されている日本の伝統芸能のうちの一つを学んだにもかかわらず、私たちの中に、小難しくて古いものを学問している感覚はまったくもってなかった。なぜなら、私たちは文楽を経験したためである。実際の文楽の演者が小学校にやってきて、先生として私たちの演技指導をしたのだ。文楽というものが歴史に名だたる伝統のものであると習うよりも先に、近所の演劇としてその身をもって体験してしまったからである。受動ではない、能動の触れあいであった。舞台を踏むということに、途方もない快感を覚えた私は、今しかないとばかりに文楽の世界に飛び込んでしまった。元来、物語が好きだった私は、将来の仕事は何かを表現できるものがいいと思っていたのである。中学一年生の冬には正式に芸名を頂戴し、豊竹咲大夫の弟子となった。私は高校生になった。と同時に初舞台を踏ませていただいた。稽古のために授業を抜ける日々が続いた。にもかかわらず、私は学級委員長をやらせていただいたし、部活にも入っていた。三年間、実に理解も懐も深い担任と、顧問の先生に恵まれたものだと思う。彼らは私の仕事を知ろうとしてくれたし、それを使って同級生と比べることもしなかった。心から尊敬しているし、感謝している。しかし、これまでひたすら真っ直ぐに、脇目も振らずに文楽の道を進んできたのかというと、実はそういうわけではない。高校を卒業後、私は初めて東京公演と地方巡業を経験した。それまでは、東京に行くと何か特別な新しいことが経験できる、と正体のない期待に胸を膨らませていた。ゆえに東京公演を経験した後、私は恐ろしいほどに落胆してしまった。当たり前である、東京であろうと、博多であろうと、京都であろうと、文楽は文楽なのだ。そうか、これから先、この生活スタイルのサイクルがこま宇宙空間で廻り続ける独楽のように同じ速度でずっと巡り続けるのか、そう気付いたとたんに私は自分の将来に疑問を覚えた。もっと沢山の選択肢があるのではないか、と。06No.7