ブックタイトル教育情報No.7
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教育情報No.7
挑戦できることの幸福感といったら!私は自分でも予想外の行動をとった。十九歳の頃である。文楽を、お休みさせていただいたのだ。今から考えると相当危険な行為だ。演者としての契約を抹消されてもおかしくない。けれども、私は子供の頃からこの世界しか知らなかったのが、たまらなく損をしている気分になったのである。舞台に出ない、師匠のお宅にも行かない、文楽から完全に離れた生活が始まった。私は自分の可能性の範囲がどれほどの距離をもっているのかを探り始めた。そのときは挑戦したいものを思いつくままにしていたのだが、今思うと、規則性がある。むしろ、結局のところ、根底はまったく変わっていなかったということだろうか。小説を書いて投稿した。俳優のオーディションを受けた。くたび草臥れるまで絵を描いた。作曲をした。これらの経験に加え、高校時代の経験を加えると、さらにはっきりと分かる。三年間、文化祭において脚本・監督で劇を作った。自主制作映画を作った。私は、物語を表現したいのだ。今でこそ分かることであるのだが、当時はまったく気付かなかった。そんな私を再び文楽へと導いてくれた人がいる。ひとりは芸能関係の方である。その方はご自身の分野のみでなく、あらゆる芸能のことに精通されていた。この方から二つの質問をいただいた。「文楽で好きな演目は何か」「文楽以外の演劇で好きな演目は何か」文楽で好きな演目はすらすらといくつも出てきた。もちろん、それ以外に好きではない演目も頭に浮かんでいた。文楽以外で好きな演目は、たったの四つしか出てこなかった。頭に浮かんでいたのもそれだけだった。瞬間、私は文楽以外の可能性を探っていたにもかかわらず、自分のしたいことばかりをして、他のプロの方の芸術を何ひとつ吸収していないことに気付いた。そしてもうひとりは、幼稚園時代の恩師である。幸い私は尊敬できる方々に恵まれているが、この方は人生のすべてを尊敬している。私は二十歳になったときにその恩師に食事に誘っていただいた。先生は私が道に迷っていることを知らない。お酒を交わし、やがて、程よく酔い加減の先生はこう言った。「おまえの十年後が楽しみや」と。この二つのことが、私を文楽へ引き戻した。ゆえに、目下、私の目標は三十歳までにどれほどの文楽の芸を習得できるか、どれほどの他分野の芸術を吸収できるか、ということにある。面白いことに、腹をくくって戻った後、自分の芸の力量のなさに驚き、文楽という芸能の相当な難しさに打ちのめされた。それまでの私は、舞台に出られれば良かった。舞台の上での快感と多幸感がすべてだった。「芸」のことなど小指の先ほども考えてはいなかった。それでは単なる自慰行為である。それが、どうだ。今は舞台が魔物のように恐ろしい。何もかもが壁である。乗り越えても平然とそこには次の壁が存在している。そして、それに挑戦できることの幸福感といったら!「挑戦そして前進」私の座右の銘は「挑戦そして前進」である。これは、高校の頃の部活でのスローガンで、それ以後、私はこの言葉を胸に毎日を過ごしている。芸には、終わりがない。地平線よりもずっとむこう、宇宙の彼方へたどり着くほどの時間をもってしても、終わりはない。終わったと思うのなら、その時点でその人の成長は終わってしまったのだと私は思っている。だから、「挑戦そして前進」は、初心に返るための戒めの言葉でもある。あの、芸を舐めきっていた頃の恥ずかしい自分を思い出すための。師匠方、兄弟子方の芸というものは、磨き上げられ続けている至高の芸である。未だ足元にも及ばない。地面の下へ潜ってしまいたいほどだ。文楽の芸というものは四百年の歳月を経た今でさえ、名人と呼ばれる人は口を揃えて「まだまだです」とおっしゃっている。私は見てみたい。純粋な修行の極致に見える、その「まだまだ」の世界の光景を。そして、一生、「挑戦そして前進」し続けていきたい。著者プロフィール●豊竹咲寿大夫(とよたけさきじゅだゆう)文楽の太夫。平成元年9月7日生まれ。平成14年4月、豊竹咲大夫へ入門。同12月、豊竹咲寿大夫と名乗る。平成17年7月、国立文楽劇場にて初舞台。現在に至る。ブログ「さきじゅびより」http://ameblo.jp/sakiju/07