ブックタイトル形 forme No.303 教科書特集号
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形 forme No.303 教科書特集号
1127,297,686筆者は、小学校に上がる前から、図工の先生が主宰する絵画教室に通っていた。行きはじめたのは、共働きの両親が週末の午後を有効につかいたい、おそらくそれくらいの理由だった。教室は、トタンに覆われたおんぼろ長屋の一角。画用紙や絵の具が散乱する十畳間に、ワルから秀才までが集まっていた。先生は、皆が同じように絵を完成させなくても、一緒にかく時間さえ共有できればいいという方針。だから、洗い場で水遊びばかりしているような子がいても強制はしない。わたしは、空き地で野球をする時と同じように畳に転がり、皆と大声をあげ、画用紙に色を塗った。ふと隣を見ると、畳の上のわたしたちが羨ましかったのか、あの洗い場の子が筆を持っていた。後年、わたしは高校生になり、美大受験のため研究所に通いはじめた。そこで思わぬことを指摘される。絵の具を混ぜすぎて濁った色をつくってしまう、そんな癖だった。デザイン科受験にはマイナスの要素。油絵をやっていた先生の影響があるのは想像に難くない。以来、わたしは子どもに癖まで伝えてしまう大人という厄介な存在を一歩引いて見るようになった。だが、三十年ほど経った今でも、ものをつくる人間の端くれでいられるのは、あの先生がいてくれたからだと強く思う。野放図な先生がつくり出す世界で、皆と衣服をぐちゃぐちゃに汚したあの頃。そこで得たのは、絵を上手にかくこと、それだけではなかった。水島尚喜は、人生の三分の二を美術教育とともに歩んできた。これまで関わってきたのは、小学生から大学生。この分野のスペシャリストといえる。だが、彼にはベテラン教師然としたところがまったくない。その柔らかさは、いったいどこからくるのか。彼は富山に生まれ、父親の仕事で富山と東京を行き来しながら少年期を過ごした。中学の時が、文化の土壌豊かな七十年代初頭。そこで彼を魅了したのは音楽だった。ラジオから流れてきたRCサクセションやビートルズが、頭の中でも鳴り続けた。自分も同じように表現したい。早速ギターを手にした。高校に上がり、今度は同級生とロックバンドを組み、ラジオにも出演した。表現欲はそこにとどまらない。以前から好きだった絵をかき、文章も書いた。だが、これを「多感」という言葉で括るのはちがう。音楽、文章、絵……彼にとってそれらは自分を表現するということの振り幅の中にあり、それらすべてを束ねる自分をつねに俯瞰しながら創作をしたい。そういう思考回路だった。やがて進路を決める時がきた。ここで絵を選択。しかし、絵だけで食べていけるとは思わない。美術教育を学びながら制作することにした。だから東京学芸大学に入学後も、寝る間を惜しんで描き続けた。作品は平面から半立体へと変化していた。テーマをあらかじめ定めず、スチレンボードや絵の具などのさまざまな素材をつかい、形づくっていく。そうすることで、自分が世界とどう関わることができるのかを知りたかった。作品名はいつも『untitled』。完成させることが命題ではない。素材を自分に引きよせ、自己対話を重ねながら作品を生み出す。その過程こそが重要で、何かを掴めるのは表現した後のことだと考えた。同時に、寮の友人と絵画教室でアルバイトをした。友人は幼児、彼は小学生を担当。そこで、友人が子どもとふれあう距離感にハッとさせられた。友人は、あぐらを組んだ膝の上に子どもたちをのせ、一緒に絵を鑑賞しながらほめた。「すごいね!きれいだね!」。後に著名な絵本作家となる友人のスキンシップには、天性のものがあった。子どもたちに心からの声をかけると、喜んでどんどんかいてくれる。彼も子どもたちの世界にのめりこんだ。そこには、自分自身の制作では導き出せない造形的な喜びがあった。思わぬところから新しい世界がひらけた。「子どもの線っていうのは美しいんですよ。その体から発した混じりっけのないもの、呼吸と一緒に出てくるようなものに悪いものはない。見ているだけでみんなを笑顔にしてくれるんですから」。一本の線をかく。それひとつとっても大人は計算してしまう。だが、子どもの線は対価を求めない。人間という動物だけに許される造形活動。その原点を見るようだった。子どもたちにとっては、描くことがすなわち生きていくということなのだ。彼は、美術教育に人生を懸けてみたいと思った。卒業後は非常勤講師を一年経験し、小学校に正式採用。いよいよ実践の時がやってきた。通常のカリキュラムをこなす一方、先人たちが改革してきた豊かな造形教育を目指した。だが、子どもたちが思うようについてきてくれない。理想が現実の中で空回りしていた。「言葉の世界って、制度を定めたり、ものごとに整合性を与えるっていう意味ではとっても大事なものだと思うんですけど、美術っていうものはそれを変革させたり、新しいものにしていく力があると思うんです」。当時の自分は「言葉」というものに捉われすぎていたという。彼にとっての「言葉」とは、本来伸びやかであるはずの造形活動と対立、抑制させるものだった。先生を「職業」としたことで、知らず知らずに、その「言葉」をまとっていた。しかし、その閉塞感を打破してくれる出来事が起こる。25 | 303 | forme