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概要

形 forme 304号

しかし、その制作動機は「木彫に本来の自覚を持たうとした」ものだったと光太郎は述べています。彼の木彫は写実を徹底するのではなく、不要な要素は省き、刀痕による小さな面を連ねて大きな面を形成する、彫刻的な構造のなかで生命の原理を捉えなおしたものだったのです。光太郎には彫刻制作から離れていた時期がありましたが、一九二四年から木彫の頒布会を始めています。久しぶりに手がけた木彫の多くは、手で包みこむことができるような小品がほとんどでした。《栄螺》や《鯰》の表面を形づくる無数の刀痕は、手の平で触覚を心地よく刺激します。それは何よりも光太郎に彫刻の喜びを思い出させる感覚でした。置物彫刻が床の間の芸術ならば、光太郎の木彫は、掌たなごこのろ芸術であったといえるでしょう。そんな木彫の制作は一九三一年を最後に途絶えます。この頃、妻・智恵子が精神に変調をきたし、危険な小刀やノミを近くに置いておけなくなったためです。智恵子が縫ったという《栄螺》を収める袋には、光太郎直筆の短歌が書されています。いはほなすささえの貝のかたき戸のうこくけはひのほのかなるかもわずか七年の間に高村光太郎がのこした木彫群は、ささやかなものであっても、その生涯のなかでひときわ輝いています。迫内祐司さこうち・ゆうじ一九八一年福岡県北九州市生まれ。小杉放菴記念日光美術館学芸員。主な企画展に「中村直人彫刻の時代」(二〇一二)など。共著に『近代日本彫刻集成(全三巻)』『美術の日本近現代史』がある。左)鯰[木彫/6×42.5×12.5cm]1926高村光太郎東京国立近代美術館蔵Photo: MOMAT/DNPartcom15 | 304 | forme