ブックタイトル形 forme 306号
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形 forme 306号
1127,122,064芸術家は異端だからこそ、社会のさまざまな問題に、時に思いもよらぬ問いを投げることができる。そして、膠着しがちなわたしたちの思考に変化を与えてくれる。だが普段、芸術家は社会のことなど、それほど気にしていないだろう。社会に有益なことを考えれば考えるほど、作品の切れ味は鈍ってしまう。彼らは芸術の世界で名を残すこと、つまり自分にしかできない表現を掴むことに最大限時間を使いたいと考えているはずだ。わたしたちが考える以上に、芸術家は自分本位に生きている人たちではないだろうか。ここに、三十七年にわたり美術を教え、同時に作家としても活動してきた人物がいる。春日明夫、現在は室内建築専攻で子どものためのデザインを教える大学教授だ。生まれは、東京の板橋。少年期はちょうど昭和三十年代。辺りは遊び場で溢れ、子どもたちは遊び道具を自分たちで作っていた。「道具を作っても『いいな、それよこせ』と、先輩に取られることが多かった。でもまた新しいものを作る。それでもまた『よこせ』。嫌だったけど『上手く作ったから取られたんだ』と、心の中で喜んでましたね」先輩たちの中では、取り柄がないと生き残れない。そこで、彼は自分を生かす手段のひとつとして、「芸」の存在に気づいた。もちろん絵を描くのも好きだった。貸本屋で漫画や少年雑誌を借り、チラシの裏に模写した。手塚治虫の漫画をプロ級に模写する友人がいて、負けずに描いたが全く似ない。得意だと思っていたことで能力の差をつけられショックだったが、決して友人を褒めたくはなかった。小六の時、その友人と、描いた漫画を手塚に見せるという無謀な計画を立てた。三百枚の絵が入った段ボールを自転車の荷台に括りつけ、アポ無しで仕事場に持参。主は外出中だったが、粘っていたら運良く帰ってきた。白いティーカップに紅茶。それと、モンブランという名のケーキ。応接室のテーブルに、見たこともないものが並んでいた。勧められたが、緊張で手が伸びない。手塚は友人を「上手だね」と褒めた。早熟な彼は、手塚に弟子になりたいと伝えたが、まずは基本のデッサンが必要だと諭された。春日は、「君らしくていい絵だね」と言ってもらった。今思うと、手塚の模写から出発した絵が、たまたま下手で、ただの真似に終わっていなかったからかもしれない。自分が美術の世界に向いているかどうか分からない。しばらく、絵とも疎遠だった。だが高二の時、例の友人にばったり出会い変化が起きる。彼に当然のように芸大に行くのかと問うと、法学部に進路を変えたという。唖然としていたら、春日も進路を聞かれ、芸大に行くと宣言してしまう。口からでまかせだった。要は、負けん気がそう言わせたのだ。通い始めた予備校ではいつも下位。美術に必要な体力をつけるしかない。だから、石膏デッサンと油絵の基礎を繰り返した。この時彼にとっての美術とは、キャンバスに油絵を描くこと。「絵描きになりたい」。ライバルに口走ったでまかせから、なぜか純粋な思いが芽吹いていた。結局、二浪した。入ったのは、東京造形大学の絵画科。その頃は、現代美術に惹かれるようになり、映像表現にも挑戦した。樹の枝に光が射し、壁などの背景に影が映っていく。映像なら、光景のすべてをとどめられる。テーマは、時の移ろい。絵画以外で「芸」を扱えた手応えはあったが、疑念も出てきた。自分の中にある「画家」への執着を確かめるため美術館に通った。古典絵画の前に立つと、涙が出てきた。思い直し、再び筆を持つ。極端だが、今度は古典技法に挑戦してみたい。テンペラ、フレスコ、日本画。油絵とは違う乾いた質感が自分に馴染むような気がした。しかし、フレスコは漆喰を塗る作業が煩わしく、日本画は顔料が高価で手が出ない。もっと、土器のようなマットな画面を素早く作り出せる方法はないか。ある教授が、輸入されたばかりのアクリル絵具の存在を教えてくれた。それに粉絵具や顔料を混ぜたらどうなるか。ひび割れの危険はあるが、成功すれば何か掴めるかもしれない。実験を繰り返した。「使える」と思うようになるまで、そう時間はかからなかった。これは誰も手をつけたことがない手法で絵が描ける。しかし、そのままスムーズに画家へと踏み出したわけではない。彼は、教師になっていた。絵一本の生活に不安もある中、受けた採用試験にパスしたことが大きかった。もちろん、画家への憧れはある。だから、働いて貯金したら、ヨーロッパにでも留学しようと考えていた。そんな中、新任の公立高校で、美大進学を希望する生徒たちと出会うことになる。「まったく絵が描けないのに美大に行きたいというから驚いたね。でも、朝練するか?と、つい言っちゃったんですよ。自分も毎朝、四時起きになるのに。そうしたら、生徒が描けるようになってくるわけです。感動的でしたね。自分みたいなろくでもないやつが一生懸命教えたから、生徒も変わったんだと思う。信頼されることは、嫌じゃない。もっと教えたいと思うようになるんです」春日の熱意に応え、生徒も努力した。そして、ほぼ全員が現役合格する快挙となった。初めて教えた生徒たちとの間にできたこの関係を契機に、彼は教師として自分を生かす道を発見していく。次は、東京都の公立中学に勤めた。丁度、暴走族や校内、家庭内暴力が社会問題化した頃だった。「もう、じっとしてないですからね。生徒を食いつかせるには、どんな題材がいいか真剣でした。絵だったら投げておしまい。ならば工作がいい。25 | 306 | forme