ブックタイトル形 forme 307号
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形 forme 307号
するが、映画のように大風呂敷を広げずとも、写真が映画と匹敵するメディアだと分かったことが大きかった。それに、写真は基本的にひとりで撮る。だから、生活の実感というようなものを出発点に、自分の考えをダイレクトに写し込めることにも魅力を感じた。写真なら、自己表現ができるかもしれない。先人たちを見渡し、手の届きそうなスタイルを思い描いた。手にしたカメラは、ホンマも使った4×5。大学のあった中野周辺を、昼夜問わず歩いた。カメラを向けたのは、宅地や脇の路地、その遠景にある高層ビル。それまでも都会の風景には挑んでいたが、課題の範疇だった。人物が出てこない静的なイメージが好みなのは、基本的に変わらない。その上で、何ができるのか?時にビルを見上げる位置にカメラを構え、時に警備員に許可を得てビルに昇った。「街をいろんな角度から見てみたいというのがありました。試す中で、ある時、ミニチュアっぽく撮れたんです。それを友人たちに見せたら、反応が今までになく良かった。でも、それは偶然できたことで、自分が意図した『表現』にはなっていない。友人たちに褒められても、自分の中では、『ミニチュアに見えているだけだな』と思ってました」アオリの効果は、自分のスタイルを見つけようと試行錯誤する中で、たまたま見つけたものだった。だが、彼が言うようにカメラの「機能」を使っただけでは、「表現」とは呼べない。もちろん、同じ機能を扱う写真家がいたかもしれないし、デジタル加工すれば、似たものを作ることもできた。重要なのは、不意にできてしまった表現の萌芽を引き寄せ、どうやって自分にしかできない表現へと結びつけることができるかだ。そもそも、それが自分を賭けるほどの価値がある表現だと、いつ分かるのか。もちろん、彼も分からなかった。だから、とにかくその手法を試した。街を歩き、臭覚を働かせ、自分だけのカメラ位置を探した。空撮が必要になれば、企業広告を利用し、ヘリの中から狭い焦点をあわせるという無謀な撮影を繰り返した。失敗続きだったが、誰もが知る街というものを、自分独自の視点で一枚の写真に閉じ込められることに手応えがあった。誰も歩いたことのない、足跡のない道をひとり歩いていく。その歩みをやめなかった者だけが、作家という存在に近づいていくのだろう。やはり、模索の中で、彼も「表現」についての審美眼を培っていったのだと思う。その眼は、多くの作品を「観る」ことで養うことができるが、やはり、傍らには「撮る」ことを続けていなければ到達できない。しかしながら、ミニチュアのような効果が偶然の産物だったということ以上に、十年もの間、手法を変えず写真を撮ってきた事実に驚かされる。と同時に、疑問も湧く。本当にその手法だけで、創作の喜びを感じ続けることができたのか。途中、飽きることはなかったのか?本城はこう言う。実際に続けていく中で、撮影前に終わりが分かる広告などの依頼にはストレスを感じ、正直、飽きた時期もあった。だが地道に撮る中で、対象が都市であれば、少しずつ街を移動し、それぞれの街の違いを発見することに面白さを見つけた。世界中のさまざまな事象を独自の視点で類型化する研究者のように、街を撮ることを自らの使命とし、やりがいを作ってきた。時には、野生動物を撮りにアフリカにまでロケをした。「単純に動物を撮ったら面白いだろうと、三日間、空撮しました。三百枚撮った中で、人に見せられるのは三十枚。もっとできると思ったんですが……またトライしたいと思っているうちに発表するタイミングを失ってしまった」ロケの総額は三百万。だが、発表という発表はしていない。それほどの表現意欲が、この寡黙な写真家のどこに隠れているのか。同じ手法であろうが、彼は決して自己模倣に陥っているわけではない。ひとつのスタイルをとことん極めんとする、この作家が持つ職人精神には畏れ入る。あとひとつ疑問がある。同じテーマで撮り続けるということは、そのindustry #1 2014forme | 307 | 24