ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

形 forme 310号

筆者には、一歳半の子どもがいる。数カ月前から何やら判別不能な言葉を口にし、あっという間に「パン」や「バス」といった単語を喋るようになった。大人からすれば、目の前の対象を名詞に置き換えただけなのだが、ものの名称を認識できたことが嬉しいのか、得意げに連呼している。また言葉を、自分がこうありたいという未来の状況を導くためにも使いはじめた。食事の際「ホーク」と言えば、白飯やおかずに飽きて、そろそろデザートが欲しいという合図で、「ちっち」と言えばオムツを替えるためのマットを準備せよということだ。自宅の冷蔵庫の扉に、メモを留めるため人形のマグネットを付けている。先日はそのいくつかを逆さまに並べ、突然「ねんね」と言った。「ねんね」は就寝の合図を真似たのだろう。だが、人間が寝ている状態がどう見えるかなど説明した覚えがないので驚いた。「ねんね」という言葉を使うために人形を用いたことより、頭を下に向けた状態が寝ているのだと想像したことの方が気になる。「俺はできれば、百パーセント文字がいらないぐらいのところで絵本を描きたい。絵で語り、絵で喋りたいっていうのがある。その点、ガキっていうのはまだ分化してないから、絵本の絵も文字もなにもかも見て、読み解こうとする。世界を読もうとしているわけだよ。あるひとつの海があって、そこに青空があって、この色だし、この水平線を読み解かないと成りたたない。それなのに大人たちは、『船がいます』という文字だけ読んでページを進めてしまう。その船がどんな船なのか?進む方向はどちらか?その船に乗りたいのか、どうなのか?」インタビューを始めて五分もしないうち、彼は単刀直入にこう言った。五味太郎。これまで四百五十もの作品を世に送り出してきた絵本作家だ。聞いて強く思ったのは、想像するということは人間の本能的な行為だということ。絵を読むという瞬間に、つぎつぎと自由な想像が立ち上がってくる。それは、なにも彼が親しみを込めて呼ぶガキたちの特権ではない。だが、文字を読める大人は文章だけを読み、ページを走らせる。だから、「文字」よりも「絵」にこだわってきた作家は、絵本を能動的に読む子どもたちしか信用できなくなる。少年は見るのが仕事です。それしか仕事はありません。感じたり考えたり、工夫したり試してみたりもするのですけれど、それはあくまで副業、本業はただ見ることなんだと、今振り返って改めてそう思います。(『ときどきの少年』復刊版)五味が十五年前に出版した自伝エッセイのあとがき部分だ。想像力の中心は、見ることにある。それは、対象を細かく見ることで広がりをみせる。人形を逆さにしたことが寝ていると考えたことも、日常生活を注意深く観察していたからだし、描かれた船の進む先にまで想像が及んだのも、絵本の隅々にまで目を向けていたからだ。子どもは、見ることにあらん限りの力を使う。敗戦から日の浅い頃を背景にしたエッセイの五味少年もそうだった。好意を抱いていた転校生に、ハンカチの汚さを指摘された持ち物検査。やけになり水たまりでハンカチを汚していると、下校途中のその子が立っていた。その時、眩しく映ったのは彼女の白いブラウス。ハンカチを洗ってもらうため訪れた彼女の家では、初めて見た洗濯機に感心しながらも、その母親がハンカチを足で荒々しく踏んで泥を落とす様に目を奪われる。小学生が知ることができる範囲で実際に目に見えた、そのディテールに焦点を当てながら思い出す作業。出会った世界への驚きを冷静に分析し、脚色せず書いている。六十年前海は広いね、おじいちゃん[カラーインク・紙/22×24.9cm]1979forme | 310 | 30