ブックタイトル教育情報 No.15
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教育情報 No.15
天皇陛下の即位に合わせて、「平成」に替わる元号が「令和」となった。飛鳥時代に定められた最初の「大化」(678)から数えて248番目の元号となる。典拠となったのは、奈良時代に編まれた日本最古の和歌集『万葉集』である。その中で、「令和」は、巻5に収められた「梅花の歌」の序文が出典されている。この歌は、大宰府政庁の大宰帥(長官)であった大伴旅人が、大宰府の邸宅で催した「梅花の宴」で詠まれた32首である。その詩の序文の一節、 初春令月 気淑風和(初春の令月にして、気淑く風和ぎ)を拠としている。 遣唐使によって大陸文化が次々にもたらされた時代に「和魂漢才」の道を行った大伴旅人。約100年程後、「和魂漢才」を唱え、大宰府で逝去され神となられた菅原道真。この二人が共に居た「大宰府」、「令和」ゆかりの地を見てみよう。 大宰府、「おおみこともちのつかさ」と呼ばれた西の都は、なかば運命づけられた歴史のいとなみの中で誕生した。7世紀中頃、超大国の隋が滅亡し、この後に興った唐と朝鮮半島の新羅が、隣国の百済を滅ぼした。誕生は、この時、救援に出兵した大和朝廷軍が大敗を喫した直後のことである。それより、約500年の間、大宰府はこの地を動くことなく、外交の最前線として、九州の政治の中心として、わが国防衛の拠点としてあり続けたのである。 大宰府は、文化を受け入れる窓だった。それはまず、都城建設に生かされた。碁盤の目のような大路が東西南北に走る条坊制が用いられた都市計画で、古代における最新の文化情報に裏付けされたものだった。もちろん、藤原京も平安京も、この大宰府を模して造られた。しかし、そのスケールは、大宰府の比ではなかった。大宰府は、世界に対して、この両翼を広げていたのである。他の都城が、それぞれの歴史を担って殉したのに対して、大宰府は、常に西に開かれた明るい国際都市として存続した。 そして、大宰府を目指して、多くの人がやって来た。この西の都は、誰をもやさしく受け入れる包容力を備えていた。この魅力に人々は夢をふくらませた。今、この地に残る神社や寺院そして史跡や遺物の中に、歴史絵巻を織りなした偉人たちのドラマを知ることができる。大伴旅人は、軍人で政治家そして歌人、山上憶良をはじめこの大宰府で多くの文人たちと交わり優れた和歌を残している。大宰府の風に吹かれると、日本の歴史を駆け抜けた偉人たちの息づかいが感じられるのである。 その大宰府にもう一つの幽光を放つ人物が訪れる。 延喜3年(903)、古代きっての学者政治家菅原道真は、配所の大宰府南館にて逝去された。その御遺骸は、京より追従した門弟味酒安行によって東北をめざして運ばれたが、その牛車は突然動かなくなった。生前、道真は、自分の遺骸は牛の止まった処に埋葬するように、京へ帰ることは望まぬ、と安行に遺言していた。その2年後、大宰府政庁よりの許しがあって、安行は道真の遺徳をしのんで祠廟を建てた。これが太宰府天満宮の始まりである。 菅原氏は、古代豪族土師氏を出自とする。道真の曽祖父古人が、土師を菅原と改姓するとともに、文道をもって朝廷に仕える家柄となった。時代は、嵯峨天皇の御世を頂点として、「文章経国」が、国の根幹とされ、唐風の文化の最盛期を迎えていたのである。 道真は清公、是善と続く文章博士の道統に生まれた。母は、少納言伴(大伴)善績の娘である。わずか5歳で和歌を詠み、11歳を過ぎて漢詩をはつはるれいげつきよそちかぜやわらよりどころきよきみ特集新元号「令和」新元号「令和」ゆかりの太宰府太宰府天満宮権宮司 味酒 安則「令和」誕生大宰府政庁の建設太宰府天満宮の創建02 No.15