ブックタイトル教育情報 No.15
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教育情報 No.15
創作し、神童と称された。18歳で文章生、23歳で文章得業生、26歳でついに方略式に合格した。30歳の頃、島田宣来子を妻に迎え、33歳で式部少輔、文章博士となり、学者としては最高の栄進を続けた。元号を天皇に上申することを「勘申」という。文章博士の役目である。したがって、道真は「仁和」「寛平」「昌泰」の元号の勘申者の可能性がある。一時、讃岐守という地方官へ遷されたが、そこでむしろ慈父のごとき善政を行い住民に慕われた。 京へ戻ると宇多天皇の厚い信任を受け、蔵人頭などの政治の中枢に参画する。50歳の時には、唐の国情不安と文化の衰退を理由に遣唐使廃止を建議し、唐土に渡ることはなかった。そして、55歳で右大臣、そして、ついに、延喜元年1月7日、藤原時平とともに従二位に叙せられたが、その直後、急転して大宰府左遷となる。 この時代、国史上例を見ないほど、学界と政界とが深く結びついていた。それは、「文章経国」によるものだったが、一代にして天皇家の外戚にまで昇進した妬みと、政治家であるまえに実直な学者であったことが相俟って、悲運の最期を迎えたといえよう。 一方、大宰府では、左遷というより配流に近い窮迫の日々を送りながらも、ひたすら謹慎し、配所から一歩も出ることはなかった。劣悪の環境のなかで健康を損ない、道真を京で待っているはずの夫人の死去の知らせが届くと、ますます病は重くなり、延喜3年2月25日、白梅の花びらが散るように亡くなったのである。 「書写音読」の時代の中でわが国で、はじめて事象をジャンル別に体系化して研究した人で、厳しい学究と至誠の人といえる。 天平2年(730)正月13日、初春の佳き日、十三夜で月は美しく、気は清く澄みわたり、風はやわらかにそそいでいる。この時、1年に1度、大宰府管内の諸国より大宰府に遣わされた朝集使たちに、大宰府官人、それ主催者の「師老」すなわち大伴旅人とその知人を合わせた32名で「梅花の宴」を開いた。漢文で記された序文にいう、梅は佳人の鏡前の白粉のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香のように匂っている。・・・漢詩にも落梅の作がある。昔も今も何の違いがあろうか。さあ、この園の梅を題として、しばし「やまとことばの歌」を詠むがよい。 梅はそもそも渡来木で、遣唐使の時代に海を渡って来た。梅は長い冬をじっと耐え忍び、正月を迎えて最初に咲く花である。それも、若葉が出るより先で、あたかも枯木に花が咲ようだ。このことで、梅は中国で最も高貴な花とされていた。天平時代前後には、舶来の梅を愛でるという趣が、新しい文化の象徴として古代貴族に定着し始めた。後にこの梅をこよなく愛されたのが、旅人より100年程後の菅原道真である。旅人の時代は、梅はまだ白梅で、雪のように白い梅は美しいと詠んでいる。それが、平安時代には道真自身が自邸を「紅梅殿」と呼ばれたように、紅や薄紅もできたものと考えられる。 ところで、大伴旅人は、中国伝来の梅の宴の席で、序文は漢文で記して、何故歌は「やまとことば」にしたのかという疑問が生じる。それは、旅人自身が「和魂漢才」の人物であったということである。『万葉集』4516首の歌が、大陸文化が堰を切ったようになだれこんだ時代であっても倭歌なのである。旅人をはじめ古代天平の人々の心情が垣間見れる。 遣唐使が持ち帰る、新たな知識や情報をわが国固有の精神をもって取り込み、国家の政治、教育、文化の発展に注ぎ込んでいる。菅原道真が生涯を通して示顕された「和魂漢才」の精神と旅人のそれが通底していると考える次第である。おもむきあとのちじげんやまとせき現在、福岡女子短期大学客員教授(博物館学)。福岡県立美術館協議会委員長や、九州国立博物館文化財保存修復施設運営委員会副委員長、九州文化財国際交流基金理事長など務める。また、太宰府市文化振興審議会会長の公職も務めた。著者プロフィール● 味酒 安則 (みさけ やすのり)梅花の宴03