ブックタイトル生活&総合navi vol.69
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生活&総合navi vol.69
三池カルタの誕生と普及「天正カルタ」の裏面の記銘を根拠に日本におけるカルタ生産は,筑後国三池で開始されたものと考えられている。三池で生産が開始されたカルタは,やがて一大消費地の京都へと伝播し,多くの人々の需要に応えるようになるが,最初期には三池の優秀な職人が京都に上り活躍したようで,製作者のなかに「三池筑後屋友貞」(『勧遊桑話』)という人物が確認できる。このカルタの普及と流行は,戦国の世の記録にも現れる。1597(慶長2)年の豊臣秀吉による朝鮮出兵(慶長の役)の際,全国の諸将は肥前名護屋(現・佐賀県唐津市)に陣を張るが,その陣中で土佐の大名・長宗我部ばくえき元親は家臣に対し,「博奕カルタ諸勝負禁止」というカルタ禁止令を発している。この事例は,当時ポルトガル伝来のカルタが上流階級,特に武士の間で流行していたことを示している。歌カルタの誕生ポルトガルからカルタがもたらされる以前から,日かいおおい本には「貝覆」という優雅な遊びがあった。今日ではむしろ「貝合わせ」の名で一般には知られているが,貝覆と貝合わせは本来別のものである。平安時代に始まったとされる貝覆は,ハマグリの貝殻を数10組伏せた状態で並べて,その中から対になるものを選び取る。日本人はポルトガル伝来のカルタを,この貝覆に応用することを思いついた。すなわち,その素材を貝から紙へ転換することで「歌カルタ」を考案するのである。当初は貝覆の流れを汲む貝型の歌カルタがつくられるが,時代を経るにしたがい形を変え,将棋駒型や扇型,櫛型などのカルタが登場する。歌カルタは庶民の間でも大いに遊ばれたが,公家や大名,大商人の家族の遊び道具や嫁入り道具としても重宝された。題材としては,源氏物語・伊勢物語・小倉百人一首などが好まれた。枚数将棋駒型カルタも三十六歌仙は36組・源氏物語は54組・百人一首は100組,古今集になると1000組を超えることもある。上流階級の家では,費用を惜しまず狩野派や土佐派の絵師に依頼して豪華な札をつくらせたのである。いろはカルタと花札貝覆から発展した合わせカルタの代表は歌カルタであるが,この他にも漢詩や俗謡など多種多様なものが生み出された。その中で一般によく知られているのがことわざカルタであろう。ことわざカルタの起源については諸説あるが,遅くとも元禄期までに上方で製作されたとする説が有力である。上方では「一寸先は闇」,江戸では「犬も歩けば棒にあたる」といった教訓的な言葉を記した文字札と,それを絵画化した絵札で構成され,江戸中期以降,これを50組集めた木版刷りのカルタが大々的に売り出される。そしてこの頃に,いろはの文字ごとに1枚ずつ,合計47組に「京」を加え48組に編成し直した,たとえ合わせのカルタが登場する。これ以降,折からの児童教育の勃興と相まって,子ども向けのカルタとして好評を博すことになる。一方,合わせ江戸いろはカルタの一種で,めくり札の流れを汲むとされる花札は,花鳥風月を盛り込んだ,いかにも日本らしいカルタである。京都・大坂・瀬戸内海沿岸から日本海沿岸にかけての地域では,札に和歌が添えられているものが好まれ,競技法も札の組み合わせが得点になるものだったが,江戸・関東,東北地方の太平洋沿岸地域では,和歌のない札が好まれ,競技法も各々の札に固有の点数がついていて,それを集めるというものであった。幕末になると,地方に分散し,花巻・山形・淡路・徳島などで生産が始まり,これらの製造者たちが地方の好みに合わせた「地方札」の製作の担い手となっていくのである。参考文献:『図説カルタの世界』(大牟田市立三池カルタ記念館・平成14年)31