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概要

社会科navi Vol.11

1.「天下」について「天下布武」の印文を持つ織田信長の印章は,信長の天下一統への意志を表明したものとして,多くの教科書は記述している。たとえば,高等学校の教科書でもっとも採用数の多い山川出版社の『詳説日本史』(2012年3月27日文部科学省検定0 0は,自らの書状に「天下において車ニ乗わたして首切かけ申候事」と記した。ここでの「天下」も京都の意と解釈せざるを得ない。三つ目,1682年11月の宣教師のルイス=フロイ0 0スの書翰に「日本の君主国,すなわち天下と称する近隣諸国」とあり,ここでの「天下」は京都を核とする畿内ということになる。済)では,「1567(永禄10)年に美濃の斎藤氏を滅ぼして岐阜城に移ると,「天下布武」の印判を使用して天下を武力によって統一する意志を明らかにした。」と書かれている。あめした「天下」という語は,「天が下」とも読まれ,一般的には漠然と広く日本全体あるいはそれを越える世界と理解されてきた。ところが,信長・秀吉の時代の「天下」という語が,地理的・空間的には,天下統一といったときの天下とは異なり,日本全土を指すことは極めて少なく,京都あるいは京都を核とする畿内を指すことが近年明らかになってきた。こういうと,多くの人は違和感を感じられるかと思う。「天下」を京都あるいは京都を核とする畿内とする根拠は,数多くあげることができるが,以下,その二,三をあげる。まず一つは,織田信長が足利義昭を奉じて入京した永禄11(1568)年の2年前,永禄9年に越後の上杉輝虎(謙信)が作成した願文に「武田晴信(信玄)たいち(退治),氏康(北条)輝虎実に無事をとけ,分国留守中きつ0 0かいなく,天下江令上洛」とみえる。この部分は,甲斐の武田信玄を退治し,小田原の北条氏康とは和平を実現することで,領国を留守するも気遣い2.織田政権の再考「天下」をこうした京都あるいは京都を核とした畿内と捉えるとき,信長の印章に刻まれた「天下布武」の意味も再考を迫られる。信長が,この印章を使い始めるのは,永禄10年8月に美濃の斎藤氏を攻め滅ぼした直後のことである。「天下布武」は,「天下に武を布く」の意であるが,当時の「天下」が京都あるいは京都を核とする畿内の意であることを踏まえると,「天下布武」の意は,信長が京都あるいは京都を核とした畿内に武を布くということになる。とすれば,この「天下布武」の印章の使用をもって,これまで言われてきたような信長の天下統一の強い意志の発現とはいえないことになる。いいかえれば,信長は足利義昭を奉じて入京し,京都を中心とした地域を武をもって鎮めることを表明したに過ぎなくなり,少し前,室町幕府を支えた三好長慶とそれほど大きな差異はないことになる。とすれば,織田政権成立の画期を,永禄11年の信長入京より少し後にずらすことも考えなければならないかとも思う。なく,「天下」へ上京することができるとの意であるが,ここでの「天下」は京都ということになる。二つ目,天正10(1582)年6月,豊臣秀吉は,明智光秀を破った山崎の戦いの直後に光秀の老臣斎藤利三を捕らえ,京都で車に乗せ引き回したうえで首を刎ねそれをさらした。このことを,秀吉著者紹介藤井讓治(ふじいじょうじ)専門分野/日本近世政治史主要著書/『江戸幕府老中制形成過程の研究』(校倉書房,1990年),『日本近世の歴史1天下人の時代』(吉川弘文館,2011年),『戦国乱世から太平の世へ〈シリーズ日本近世史1〉』(岩波新書,2015年)日本文教出版『中学社会歴史的分野』教科書監修者19