ブックタイトル社会科NAVI Vol.16
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社会科NAVI Vol.16
では開国は,いつどのような形で実現することとなったのであろうか。1854 年の日米和親条約の締結をもって指標とするのが一般的であろう。アメリカ側が最初に日本側に提示した条約草案には,自由貿易を前提として,片務的最恵国待遇,協定関税制,領事裁判権といった不平等条項が明記されていたが,交渉の過程で片務的最恵国待遇を除いた不平等条項だけでなく,自由貿易規定についても落とされていったという経緯がある。 日米和親条約締結から1か月ほど経った4 月,幕府は次のような触書[②]を発した。そこには,ペリー一行が平穏に退帆したことを踏まえ,「彼かなた方志し願がん之の内うち,漂民撫ぶ恤じゅつ, 並ならびに航海来往のみぎり薪水・食料・石炭など船中闕けつ乏ぼう品々下されたくとの儀御聞届けに相成り候」と,漂流民救助と航海中に寄港した船舶の物資補給に限定して,アメリカの要求を日本が受け容れたこと,その際入港地を事前に限定しておかなければ不取締となるので,下田と箱館を開港する,という内容が記されている。 文面からは,和親条約の締結が,天保の薪水給与令の延長線上に捉えられており,鎖国の祖法を開国へと大転換させるもの,との認識はみてとれない。おそらく幕府は,祖法の転換という意味での条約締結の画期性について,この段階で既に気付いていたと思われる。しかし,当時国内には条約調印に消極的ないしは批判的な意見が根強く存在していた。幕府が,こうした認識を正面から展開しなかったのは,条約締結によってさらなる政治的苦境に追い込まれることを何とか避けたいとの思惑があったからではなかろうか。 長崎におけるオランダとの関係を米国にも適用する(対オランダ関係と同質のものである)という論理に依拠することによって,鎖国の祖法は維持されているとして国内の非難を避けようとした。ここに触書を発した幕府の意図があった。日米和親条約の締結と幕府の対応幕府の開国認識 管見の限り,開国という言葉も,鎖国同様,同時期の史料には登場しない。こうした点をも含めて考えれば,開国とは,日米和親条約締結に求めるよりも,1853 年のペリー来航以後,自由貿易を規定した1858年の日米修好通商条約締結に至る間のいくつかの過程を経つつ,段階的に実現されていったと捉えるほうが実態にあっているのではないだろうか。 貿易が民間ベースで自由に行われることは,物資の交流のみならず,思想や文化の交流の活発化を不可避のものとする。幕府は完全にそれを阻止できない。すなわち自由貿易のもと,近代合理主義思想やキリスト教が国内に浸透・定着することとなれば,幕藩体制を正統化していた国家理念=イデオロギーの崩壊を招来することになり兼ねない。この点にこそ,幕府が祖法の転換に際して抱いた深刻な危機感があったのである。▲ ② 1854 年に幕府が出した触書 ( アメリカ船内海退帆ニ付触書(写),千葉県文書館蔵)●大庭 邦彦(おおにわ くにひこ)専門分野/日本近代史主要著書/『Jr.日本の歴史』第6巻(共著小学館,2011年),『徳川慶喜と幕末・明治』(NHK シリーズ NHK 文化セミナー・歴史に学ぶ NHK出版,1998年),『父より慶喜殿へ―水戸斉昭一橋慶喜宛書簡集』(集英社,1997年)など日本文教出版『中学社会』教科書著者社会科NAVI 2017 v ol.16 19