ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play

概要

社会科NAVI Vol.20

た。 結局「公議輿論」の実現は,自由民権運動が高まったことで1881年10 月,10 年後の憲法発布・議会開設を宣言することになった(明治14 年の政変)。 外国との和親策を取ることは,新政府の外交方針としてすでに2 カ月前の2 月8 日,各国公使に王政復古を告げた際に明確にしていた。薩長などの攘夷派が新政府を握ると欧米の外交官が推測している中で,この通告は重要だった。実際には1 ヵ月前の3 月8 日に,土佐藩兵がフランス兵と争い殺傷する事件(堺事件)も起きていたが。 さらに「智ち識しきヲ世界ニ求メ大ニ皇こう基きヲ振しん起きスヘシ」(第五条)は外交策だけでなく,今後の日本が進むべき方向を示した。ペリー来航で日本が知ったのは産業革命で世界が大きく変化したことだった。それを急いで吸収するために,多くの外国人を政府や学校などで雇い(お雇い外国人),多くの青年を欧米に留学させた。岩倉使節団は留学生たちも連れて出発している。 開明的な国是の発表だったが,翌7日に旧幕府の高札を廃止し,新たに発布した5カ条の禁令〈五榜の掲示〉は,儒教の道徳を守ること,徒党・強訴・逃散の禁止,キリシタンの禁止,脱籍浮浪の防止を宣言し,民衆への厳しい政策は不変であることを示した。新政府を創るにあたり,公家が武家を,また大名が藩士クラスを同等と見ない陋ろう習しゅう(古い悪習)を破り,「上しょう下か心ヲ一ニ」することを求めた,極めて実際的な誓約だった。 誓文の起草は,参与(新政府のポスト)の二人,由ゆ利り公きみ正まさ(越前福井藩士)と福ふく岡おか孝たか弟ちか(土佐藩士)が1月に起草したものを,参与の木き戸ど孝たか允よし(長州藩士)が修正してまとめた。由利・福岡の案では,「列れっ侯こう会議ヲ興シ」とあったが,「広ク会議ヲ興シ」と修正され,新たに「一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公こう道どうニ基もとづクヘシ」を加えるなど,新政府の国是として整えられた。国是の布告が必要だという木戸の提案が実り,4 月の儀式となった。 江戸時代の老中らの密室会議を否定し,「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と第一条に高らかに謳ったのだが,実現は難しかった。藩士の代表を集めた集議所や公議所などが設置されたが,発展しなかった。1871年から73 年にかけての岩倉使節団で,憲法と議会について深く知った木戸は,その必要を説いたが,使節団で一緒だった大おお久く保ぼ利とし通みちは時機尚早論で,議会より富国強兵の実現が優先されるとした。薩長土肥などの藩閥勢力が政治の中心を担うのは,「公議輿論」とはほど遠く,1874 年の〈民撰議院設立建白書〉の批判点となっ誓文の起草「智識ヲ世界ニ」のその後●原田 敬一(はらだ けいいち) 専門分野/日本近代史 主要著書/『日本近代都市史研究』(思文 閣出版,1997年),『日清・日露戦争』(岩 波書店,2007年),『兵士はどこへ行った 軍 用墓地と国民国家』(有志舎,2013年),『「戦 争」の終わらせ方』(新日本出版社, 2015年) など「公議輿論」のその後民衆へは〈五榜の掲示〉▲ 由利公正(1829 ~ 1909) ▲ 福岡孝弟(1835 ~ 1919)社会科NAVI 2018 v ol.20 17