ブックタイトル社会科NAVI Vol.23
- ページ
- 17/24
このページは 社会科NAVI Vol.23 の電子ブックに掲載されている17ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 社会科NAVI Vol.23 の電子ブックに掲載されている17ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
社会科NAVI Vol.23
あったが,幕府により鎮圧される。その後,幕府は絵踏や宗しゅう門もん改あらためを実施し,キリスト教の監視を行った。しかし,一部の信者はひそかに信仰を続け,潜伏キリシタンとなった。 潜伏キリシタンは,宣教師の不在のなかで,口伝などで信仰を続けた。信者達は,処罰を恐れ証拠となる記録は残さなかったが,天草ではある事件をきっかけに,信仰の実態が明らかになる。1805 年,潜伏キリシタンが大規模に摘発された天草崩れである。﨑津や高浜など4村で約5200人の信者が見つかり,一人一人の取り調べが行われた。その記録が,庄屋上うえ田だ宜よし珍うずが作成した史料?である。島原藩の取り調べでは,本尊や年中行事,オラショなど,信仰の実態が詳しく記録されていく。その結果,全員キリスト教ではなく異宗を信仰していたと解釈され,幕府の裁決により処罰なしとなった。 その後も潜伏キリシタンの信仰は続き,1873年に明治政府によりキリシタン禁令が撤廃されると,天草地方でも大江や﨑津に教会?が建てられ,キリスト教の信仰が復活していった。や明治時代以降に建てられた教会の多い長崎が注目されるが,それらだけでは禁教以前の状況は証明できない。江戸時代の潜伏キリシタンの存在は,本史料?のような天草に伝えられる史料によって証明された。そのため,世界遺産名は当初,「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」であったが,禁教・潜伏期に焦点を当て「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と変更された。構成遺産も整理され,世界遺産登録を果たしたという経緯がある。熊本県天草市には構成遺産の一つである﨑津集落があり,本史料?は近隣の高浜にある元庄屋上田家の子孫が所蔵している。 なお,この「潜伏キリシタン」とは,キリスト教禁教期,ひそかにキリスト教由来の信仰を続けていた人々のことである。禁教前にキリスト教へ改宗した人々を「キリシタン」,解禁となった明治時代以降も潜伏キリシタン以来の信仰を続けた人々は「かくれキリシタン」と呼ばれている。 1549年,イエズス会のフランシスコ・ザビエルの来日によって,日本にキリスト教が伝来した。この時,ザビエルに同行したコスメ・デ・トルレスは,ザビエルの帰国後,日本におけるイエズス会の代表となり,1566 年に天草への布教を開始する。当時のキリスト教は,各地の大名による海外貿易の利益獲得と一致し,急速に普及した。 しかし1587年の豊臣秀吉のバテレン追放令により,キリスト教の弾圧がはじまり,宣教師を国外追放した。その発端は,キリシタン大名大村純忠が,長崎をイエズス会へ寄附したことにあった。 この時期,1591年に天草にコレジオが開設され,キリスト教とともに伝来した活字印刷術を用いて,ローマ字による宗教書や古典の出版(天草版)が行われた。 江戸幕府は,最初キリスト教を黙認していたが,1612 年の禁教令によって弾圧を開始し,キリスト教信者に改宗を強制した。1638年に起こった島原・天草の乱は,弾圧に抵抗した土豪や百姓の一揆で天草崩れと潜伏キリシタン●東 昇(ひがし のぼる) 専門分野/日本近世史 主要著書/『近世の村と地域情報』 (吉川弘文館,2016 年) 天草崩れに尽力した庄屋上田宜珍の日記 を中心に,ロシア船来航や疱瘡の流行な ど,村の危機に対する行政や情報活用を 分析した。キリスト教の伝来と禁制▲ ??津教会社会科NAVI 2019 v ol.23 17