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概要

社会科navi Vol.8

ピックアップ社会『学力向上を保証する探究学習』の紹介と学級経営帝京大学教職大学院客員准教授社会科教育研究センター副会長佐藤正一郎1.探究学習との出会い待望の教職に就き,小学校5年生の担任となった。二学期,病気がみつかり暫く入院する事となった。その時お見舞いに来てくれた上司の先生から,一冊の本を頂いた。大野連太郎(故人)が代表を務めた社会科教育研究センターが編集した『探究的歴史学習の指導」(昭和50年;中教出版)』であった。「驚いた…」特に斎藤雄三先生の実践記録は「嘘!!」だと思った。自分の授業からは「想像」すらできない世界がそこにはあったからだ。退院後,授業を見せてもらいたい旨をお願いし見に行った。その授業は6年生の明治時代であった。まとめも終わり,最後に「明治の新政府を評価する」と題するディべートであった。私はそこでの子供達の声や発言内容・表情を見て震えた…。一人の子は涙を流しながら「明治の新政府対策はやむを得なかった」とし,その根拠を列挙しながら訴えていた。これに対し別の子供達が反論,質問をする。これまた事実と根拠をつかんでの反論であった。「単語」がない。議論が尽きない。これが斎藤先生の授業だった。子供が「自ら考え・判断し・表現」するということはこういう「姿」となって顕れるんだと初めて知った。その後,中学校に異動となり中学校でも探究学習の実践に明け暮れた。中学校にいって2~3年経ったころ疑問が湧くようになった。その疑問はやがて不安に変わっていった。探究学習の成果として,子供が自ら考える「思考力」が育つことは間違いはない。しかし,なぜ教師が教えてはならないのだろうか?なぜ注入をしてはならないのか。これらの授業がなぜ今日の教育界にあって,かくも批難されなければならないのだろうか。これが私には大いなる疑問として生まれてきたのである。研究授業での指導主事の評価も,講義型の授業は授業の範疇に非ずとして酷評されていた。なぜなのか。いろいろな先生に聞いて回ったが満足のいく回答はなかった。そこでの回答は概ね2種類あった。一つは文部省の方針。もう一つは「自分で考えたり判断出来なくなる」であった。それは分かる。しかし人間の歴史は,このような問題解決型や探究型の教授法ではない。圧倒的に知識注入型の歴史である。現実に現在も行われている主流が講義型,注入型である。もしこれらの教授法に,取り返しのつかないような大きな欠陥があるとするならば,とうの昔に修正していたはずである。なのにまだそれは続いている。なのに研究授業等ではそれがボロクソに批難されている。この疑問を解くために研究してきたのが本著『学力向上を保証する探究学習』(日本文教出版;平成26年8月)3本柱の一つ「一章,二章」(A)である。そこでは「いつ・何処で・誰が・何のために」知識注入を正当化したのかを,キリスト教の思想と,その「知の構造」面から論じている。もう一つの柱「三章」(B)は知識注入主義に対する批判を提示した,デューイ哲学を中心に論じ,そこからなぜ,知識注入が間違っているかを明らかにしている。その上でデューイのいう問題解決型の授業を「実際の教室」で実践するときのリスクと不備を指摘している。教師がこの事を知らないで実践すると「学級崩壊」につながる恐れがある。14