ブックタイトル社会科navi Vol.8
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社会科navi Vol.8
行したものであり,当時の国際情勢から判断して適切な選択であった。2.井伊直弼の対外観1853(嘉永6)年,ペリーが浦賀に来航した際,幕府は諸大名に外交意見を求めた。幕府が幕政について譜代大名以外に意見を求めたのは,開幕以来これが最初のことだったが,多くの大名が攘夷を主張するなか,直弼は二度の意見書を提出する。しょどぞんじよりがき最初の「初度存寄書」では,キリスト禁教のたそほうめ行われた鎖国の祖法は変更すべきでない,また米国の交易要求は国法を説いて了解させると,他大名と同様の開国拒絶を述べるが,文末には,ろうじょうたいしゅくなりゆそうらいゆくゆくうれ「籠城退縮の姿に成行き候ては,往々憂うべき場に至り申す」と,逆に進んで海外に雄飛すべきであると前述の論旨を覆した。この文末の意見は,二度目の意見書において具体的となる。べつだんぞんじよりがき二度目の「別段存寄書」〔図3〕の冒頭で,今の時世では鎖国の祖法を墨守できないと前言をへいたん撤回。海防が整わない内は「暫く兵端を開かず,年月を経て必勝万全を得る」必要があると避戦論を展開した。さらに「交易の儀は国禁なれど,時世に古今の差あり」として,造船・航海技術を学び,日本から商船を派遣して交易すべきだと海外進出を説く。しかし武備が整えばいつでも鎖国に戻すことができると締めくくった。この時点での条約調印は欧米列強との戦争回避のための計策であり,将来必要であれば鎖国に戻すことを前提にしていた,いわゆる「大攘夷」論である。のちに攘夷に失敗した西南雄藩や維新政府も同様に,避戦・富国強兵・海外雄飛の道を歩んだのである。府は朝廷の勅許が得られないなか,将軍継嗣争いと絡んで攘夷にこだわる水戸藩・尾張藩などを説得する必要があった。この状況下の1858年6月19とくそく日,ハリスからの条約調印督促に対して,幕府は緊急評議を行い,即時調印を許した。条約調印はのちに違勅調印と反対派から非難されたが,調印評議の際,幕閣の大多数が即時調印を主張するなか直弼はむしろ勅許を待つべきとの立場を取った。しかし結局,幕府評議をへて将軍家定の裁可により条約調印が実行されたのであり,大老の強権発動ではないことが確認できる。評議の当日,江戸藩邸に帰館した直弼は,側近うつぎろくのじょうこうようにん宇津木六之丞(側役兼公用人)に当日の様子をこうようかたひろく語ったことが彼の記録『公用方秘録』〔図2〕に見られる。調印当日,勅許を得ずに許した責任は直弼一身が負うと記され,これをもとに従来,直弼の英断と評価され,また独断専制との批判もうけた。しかしこの部分は,明治20年頃の改竄であることが原本に忠実な写本により判明した。真相は,宇津木は諸大名の承諾を得ずに幕府が調印を許したことは反対派の攻撃の種になるとして即時撤回を直弼に迫ると,将軍裁可による決定は大老の一存では撤回できないと悔み,大老辞職を漏らす直弼に対して時局打開を優先すべきと宇津木がかんげん諫言したと記される。評議重視の姿勢で政局に臨んだ,大老直弼の等身大の姿がここに見て取れるが,幕末・維新期の政治動向を検討する上で,決定された政策のみならず,政策立案過程の分析が重要であることを痛感させられる。歴史教育のあり方が模索される現在,歴史教科書においても一歩踏み込んだ政治史の記述が期待される。3.条約調印と直弼の行動和親条約の締結後,1857(安政4)年11月,米国駐日総領事ハリスが江戸城に登城し,幕府へ通商を求め,幕府は再度諸大名に意見を求めた。この頃には大半の大名が通商容認と考えており,幕著者紹介母利美和(もりよしかず)専門分野/日本近世史主要著書/『幕末維新の個性6井伊直弼』(吉川弘文館,2006年),『シリーズ近世の身分的周縁2芸能・文化の世界』(共著,吉川弘文館,2000年),『彦根市史第二巻通史編近世』(共著,彦根市,2008年)21