「子どもに『いい教育』を受けさせたい。『いい学校』に行かせたい。」
という保護者の願いはごく当たり前のものである。
地元の公立小・中学校が,この保護者の願いに十分応える学校であったら,
「学校を選べるようにして欲しい。」
という欲求は生まれてこないはずである。
保護者のいう『いい教育』,『いい学校』とは,それほど特別なことではない。
「しっかり勉強を教えて欲しい。」
「友達と仲良くできて,いじめや校内暴力のない安心して子どもを通わせることのできる学校であって欲しい。」
大半の保護者の願いは,この2つに集約されると言ってもいいだろう。
しかし,残念ながら,この保護者たちのつつましい願いにすら応えきれていない学校があることも事実である。
「先生が熱心に勉強を教えてくれない。」
「地元の学校は荒れていて,いじめや校内暴力,体罰がたえないらしい。」
そういう先生や学校は,ごく一部であっても良くない評判はすぐに広がる。
地元の公立学校,教師への不信感,不安,不満が増幅する。
確かに,昔に比べて学校の社会的な地位は低下した。昔,学校はすごいところだった。子どもたちの家にピアノが無い時代に,学校にはピアノがあった。
「昔,学校にだけピアノがあった。
今,学校にだけクーラーもない。」
と言われる時代である。
これは,ハード面だけではない。昔は先生は村で一番の知識人だった。今は高学歴社会になって,保護者の方が学歴も学力も上になってしまった。
「先生に叱られるなんて,余程悪いことをしたのだろう!」
と子どもを叱る親はいなくなってしまった。
悲しいけれど,これが現実である。
学校は,教師は,この現実から出発しなければならない。
しかし,公立学校は,ぬるま湯につかってきた。無競争の状態に安住し,時代は激しく変化しているのに変わろうとする努力が足りなかった。
毎年同じことを繰り返し,横並び・みな同じ主義,画一的で,悪しき平等主義といわれる教育に陥ってきた。
「学校の常識は世間の非常識」とも言われた。
先生たちは,服装も態度も言葉づかいもノーサービスの典型と言われるようになった。
学校が変わろうとしないのなら,「自浄能力」が無いのなら,外から,競争せざるを得ないような,変わらざるを得ないようなシステムを持ち込もうという動きが起こってきたと,この「学区」自由化の背景をとらえるのは自虐的すぎるだろうか。