日文の教育情報 No.6 平成16年2月 発行
 
子どもが見えるということ
園田学園女子大学教授  野口克海

  ●土門拳の視線

 「筑豊の子どもたち」などの写真で知られる写真家、土門拳のところに、自分から押しかけて行って勝手に手伝いをしていた写真家の知り合いがいる。
 彼は、
 「自分は、土門拳の弟子だ」
と言っている。
 その写真家と一献傾けている時、彼はこんな話をしてくれた。
 ある時、土門拳が奈良の仏像を撮りに行くというので、朝早くからお供をした。
 開門と同時に仏像の前に座って、じーっと見つめている。
 お昼ご飯も食べずに夕方の5時まで、2回ほど見つめる場所をかわっただけで、1枚も写真を撮らずに土門拳は帰ってしまった。
 次の日も、また朝一番から同じ場所に座って「凝視」している。
 一生懸命、仏像を見つめている。
 お昼過ぎに、土門拳が突然、「カメラ!」と叫んで、ギュッと思い切りレンズを絞って、仏像をアップでバチッと撮った。
 「2日間で、たった1回シャッターを落としただけ。それ土門拳の写真の撮り方なんだ」
と彼は語る。
 帰り道、土門拳が、
 「仏像が、私に語りかけるんだよ」
 「仏像に惚れる。惚れた仏像を見つめる。仏像が私にいろんなことを語りかけてくれる」
と語ったという。

  ●子どもを見つめる

 私は、彼に、
 「それって、教育も一緒やな」
と言った。
 私たち教師は、そこまで子ども1人ひとりを見つめているのだろうか。
 子どもが黙っていても、子どもが何を求めているのか、そういう心の中まで土門拳のような鋭い目でしっかりと子どもを見つめているのだろうか。
 毎日、同じ教室で授業をし、子どもたちと一緒の時間を過ごしているから、子どもの実態が分かっているというようなそんなものじゃない。
 子どもの生い立ちや、生活の背景にあるもの、
 「今日、朝ご飯食べて来たかな」
 「家に帰ったら、晩ご飯は家族みんなと取るのだろうか」
 「テレビの前で、たった一人でコンビニのラーメンを食べるんだろうか」
 教室の中の子どもが映し出している生活の背景も含めて、子どもの実態をしっかりと見つめること。
 そこから、今子どもに必要な力は何か、そんなところから本物の教育が始まるような気がする。
 「子どもに惚れる。惚れた子どもを見つめる」
 黙っていても、子どもの声が聞こえる教師でありたい。

  ●酒田市の土門拳記念館で

 山形県の酒田市に、県の教頭研修会に呼ばれて行った時、会場の会館に置いてあったパンフレットを見て驚いた。
 酒田市の名誉市民第一号の土門拳記念館があるというのである。
 「土門拳は、酒田市の人だったのか!」
 記念館の締めきり4時半ぎりぎりに飛び込んで、写真をみてまわった。
 弥勒菩薩があった。
 「あっ、これだ!」
 この写真を撮るのに2日間、中宮寺の座敷に土門拳は座っていたのだと思いながらその1枚の写真をじーっと見つめた。
 弥勒さんの横顔をアップで撮った写真だった。
 「彼はなぜ、この角度から、顔だけを撮ったのだろう」
 引き込まれるように、その写真の前に佇ずんでいた。
 「土門拳のように、子どもを見ることが出来たらいいな」
 そんなことを強く思った。

  ●原点に帰ろう

 五日制の完全実施、新学習指導要領の実施以降、教育改革ということで、学校現場に降りてきた課題は山ほどある。ある意味では、出尽くしたと言ってもいい。
 こういう時期だからこそ、
 「原点に帰ろう!」
ということを強調したい。
 私たち教師にとって、原点とは、
 「子どもに惚れる。子どもをしっかり見つめる」
ことであり、襟を正して、
 「よい授業をする。子どもにしっかり学力をつける」
ということではないか。
 全ての教育改革は、そこから始まる。

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