日文の教育情報 No.10 平成16年6月 発行
 
義務教育費国庫負担制度の見直しに思う
園田学園女子大学教授  野口克海

  ●石垣島・竹富島の子どもたち

 先日、沖縄県石垣島の先生たちに呼ばれて教育改革について話をしに行った。
 講演の時間は、夜7時半から9時、勤務を終えた先生たちが近くの島から船でやって来るので、始まるのが遅い。
 終わってから校長さんや教頭さんたちと懇親会、深夜の12時まで続く。
 先生たちが熱い。私の手を握りながら、
 「日本の最南端の小さな島にも、子どもたちに寄り添って、一生懸命やってる教師たちがいることを忘れないでください」と語る。
 「一緒に頑張りましょう」と手を握り返す。
 次の日、竹富島へ行った。人口319人、信号のない島だった。警察官が一人もいない島、医者もいない。
 島の中央部に、小学校と中学校が同じ敷地に建っていた。児童・生徒数は25人、先生は校長さんや事務職員、養護教諭、給食調理員も入れて18人いる。
 案内をしてくれた人が言った。
 「竹富島の子どもたちは、みんな元気で成績も優秀です。全員、学年で5番以内に入っています」
 笑いながら私はあらためて感慨無量の気持ちになった。
 「我が国は、無医村であっても、警察官がいない小さな島であっても、教職員はいる! 子どもたちのために、教育を大切にしている国なんだ」
 浜辺で、星砂(星の形をした砂)を売る店の手伝いをしていた子どもたちは明るく、素敵な笑顔だった。
 私は、貝殻と星砂のキーホルダーを買い求めた。
 義務教育費国庫負担制度があるから、こんな小さな村にも学校があり、教職員がいる。
 教職員の人件費を国と県で負担して、財政力の弱い、小さな市町村をカバー出来ているから、竹富島の子どもたちは笑顔でいっぱいである。
 この制度は、無くしてはならない。

 

  ●義務教育は自由権でなく社会権

 今、日本の教育改革は“選択と競争と自己責任”というキーワードが示す方向に進んでいる。
 これまでの教育が、“平等”というキーワードで、どの子も同じ、横並び主義、画一的な教育であったと指摘され、とりわけ義務教育は、競争を極端に排除し、取り残された子どもをつくらないために、低い方にあわせた教育をしてきたと批判を受けてきた。
 21世紀は、個性の時代である。一人ひとりの良いところをウンと伸ばさなければならない。
 学校も特色づくりが大切である。義務教育にあっても“競争”は大事である。選択教科の導入や通学区域の自由化も含めて、全体として「平等権」から「自由権」へ、「選択」と「競争」と「自己責任」という時代へ大きく動き出している。

 確かに、これまでの義務教育は批判されても仕方がないような側面もあった。
 どの子にも「公平」に、「平等」にを意識しすぎて、皆同じ主義に陥り、悪しき平等主義と言われる面もあった。
 おまけに、教職員の公務員としての体質(ノーサービス・無競争・前例主義・変わろうとしない体質、等々)が重なって、保護者、市民から教師不信、学校不信をつきつけられてもきた。
 公立学校に「もの足りなさ」を感じる保護者が、公立離れ、私学志向に走るのも根拠のないことではないと言わざるを得ない。

 そういう側面は、厳しく自己批判しなければならない。保護者、市民からの批判には、私たち教職員は謙虚でなければならない。
 しかし、時代の振り子が左から右へ大きく振られるように極端な平等主義から極端な自由主義に進むことには、疑問を感じる。
 義務教育が、市場主義や自由競争の原理に基づいて行われたら、子どもたちの間にも弱肉強食が起こる。
 強い者がより強くなり(これはよい)弱い者がより弱くなる(これがこまる)ことは明白である。
 義務教育というのは、「平等権」でも「自由権」に基づくものでもないのではないか。
 「“すべての子ども”に健康で文化的な、最低限度の“生きる力”をつける」
という「社会権」としてとらえることが求められているのではないか。
 社会保障(福祉)と義務教育はナショナルミニマムとして国家が責任をもつ。
 そういう意味でも、義務教育費国庫負担制度を崩してはならないと思う。

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