運動会(体育大会)や学芸会(文化祭)など、学校行事が盛だくさんの秋がやってきた。
学校行事というのは、教員として子どもたちと一緒になって取り組んでいる時と、保護者や地域の人、来賓などとして見る時とでは、評価の仕方、見方が全然違うものだということを、の頃強く感じる。
私の場合、中学校の教員として15年間、学校行事をつくる側として内側から見てきた。
そして、教育事務所の所長時代、大阪・堺市の教育長時代、現在の守口市教育委員長の時代と、これも10数年、学校行事をお客さん、来賓として外側から見せてもらってきた。
中学校で学級担任をしている時の運動会や文化祭は、
「この行事を通じて、学級が心をひとつに、まとまってくれたら・・・」などと期待したりとか、
「つっぱりのA君が、一生懸命おぼえたセリフを口をとがらせながら頑張って演じている!」などと感激して涙を流したりとか、生徒のことで頭が一杯だった。
学年主任や生徒指導主事の時代も、本来の自分の役割に精一杯だった。
少なくとも、
「地域の人々や保護者が、この運動会や文化祭をどう思って見てくれているのだろう?」
などという発想はほとんどもっていなかったような気がする。
恐らく、どこの学校でも先生たちは子どものことで一生懸命で、私の現場時代と同じ気持ちで頑張っているのだろう。
ところが、来賓として学校を訪問してみると、どの学校も一生懸命のはずなのに、
「なんだ!この学校は」と感じる時と、
「いい学校だなあ」と感心する時とに、大きく分かれた印象をもってしまうのである。
その違いは、何か?
それは、学校行事がもっている意義のひとつに、学校行事は「学校の顔である」という性格をもっていることを自覚しているかどうかの違いであると言っていい。
学校行事には、外部の人たちにも案内状を出す。
現在のPTA・保護者だけでなく、元PTAの役員さん、地域のいろいろな団体の代表者、教育委員会、敬老席のテントには地域のお年寄り、校区出身の議員さんなどなど、日頃あまり来られないお客様が来られることも多い。
案内状を出した以上は、それなりの対応が求められるのが当たり前である。
日常生活でも人前に出る時は、相手に不快感を与えないように、むさくるしくないように、さっぱりとヒゲを剃ったり髪に櫛を入れたり、それなりの服装をして出かけるのが常識である。ムリに厚化粧しろと言っているのではない。
厚化粧や若づくりは、かえって不快感を感じる。
しかし、相手に「さわやかな印象」をもってもらえるような心配りは必要なことである。
この「心配り」のない学校が時々見受けられる。
「受付」や「案内」がない。どこからどう行ったらいいのか矢印もない。
先生らしき人とすれ違っても「あいさつ」もない。
プログラムや、子どもたちが頑張っている様子を見るポイントの解説も説明もない。
それでも、帰り際には校長さんに、
「生徒たちは、真剣にやっていましたね」
と一応、お世辞を言って帰るが、その言葉の意味は、
「先生たちは、もうちょっと真剣にやれよ」
というメッセージであると受けとめなければいけない。
学校行事は、見ていただくものという観点が抜けているのである。そうであるなら初めから案内状を出さない方がいい。