日文の教育情報 No.17

平成17年1月 発行

 

乱世に強い実行力あるスクールリーダーを!

園田学園女子大学教授

 野口克海

  ●校長になるのは、目的達成の手段に過ぎない
    目的を失った時、校長になることが目的になる

 平成14(2002)年から始まった本格的な教育改革も、もうすぐ、丸3年が過ぎようとしている。
 この3年間、教育界にはいろいろなことがあった。
 新しい学習指導要領が、部分的にせよすぐ改訂されたり、昨年の暮れには、OECDの学習到達度調査の結果を受けて、文部科学大臣が、土曜日にも授業をすることを奨励し、「学校週5日制」を否定するような発言もあったりした。
 一方で、学校現場は子どもたちの問題行動に連日振り回されたり、小・中学生が驚くような事件を起こしたり、保護者との対応が年々、難しくなってきたりしている。
 教員のセクハラ、体罰などの事件もあとをたたず、指導力不足教員の問題も社会問題化している。
 まさに、いろんなことがあり過ぎたといってもいい。

 こういう時期だからこそ、すぐれたスクールリーダーが求められている。
 ふらふらせず、しっかりとした信念を持ち、実行力のあるスクールリーダーが、何人も欲しい。
 「校長になることが目的」の人には、校長になって欲しくない。
 校長になることが終着駅だと思っている人は、校長になったら、それで目的達成で、あとは何もしないことが多い。
 校長になることは終着駅ではなく、始発駅だと思っている人になって欲しい。
 「私が校長になったら、こんな学校をつくってみせる!」
と夢が語れる人に学校をあずけたい。

 しかし、人事というのは難しい。ドロドロしている。
 どの県でも、市町村でも、年功序列や順番や人のつながりなどがあって、思い切った人事というのがなかなかできない。
 その結果、教職員がついてこない校長、保護者や地域の人たちの評判がよくない校長、信念も実行力もない校長がいたりする。
 そういう校長が、「管理職」という職の値打ちを下げてしまう。「管理職」に魅力を感じない教職員を増やしてしまっている。
 「管理職になりたいと思わない」
という教員が増えてきたり、本当に優秀な素質を持った教員が、
 「生涯、一教員として過ごしたい」
などという現実も生まれたりしている。

  ●スクールリーダーは育てるもの

 「小説 伊藤博文」(童門冬二著、集英社文庫P.147)にこんな一節がある。
 「15、6歳の頃から出世欲が盛んでとにかく上ばかり見ていた。しかし、やがてその出世も自分のためじゃ駄目だ、誰かさんのために役に立たなければ駄目だと思うようになった。自分のための出世は“私”、誰かさんのための出世は“公”だ。伊藤君。ぼくは若い人が出世欲や向上心を持つことは決してまちがいではないと思っている。しかし、それは誰かさんのため、つまり“公”の立場での出世でなければならないよ」
 ロシアのプチャーチンと互角に渡りあった幕府の官僚、川路聖謨が若い伊藤に語った言葉である。

 私たち教師は、この“誰かさん”を“子どもたち”に置き換えて読みたい。
 「伊藤博文」もそうだが、若い時からすぐれたリーダーであった訳ではない。
 たくさんの優秀な人材に出会い、教えられ、磨かれて育っていった。
 「人が大きく育つかどうかは、出会った人間次第だ」
と言える。
 もちろん出会った人間から何を学ぶかは本人の力である。
 影響される人物も人によって変わる。性が合わなければ、影響されない。
 伊藤の場合は、吉田松陰や高杉晋作にはとことん惚れたが桂小五郎のことは冷静に見ている。

 今の教育界を幕末から明治維新の頃の乱世に例える訳ではないが、平時でなく乱世に強いリーダーが求められている点では共通している。
 後継者を育てなければならない。
 次の世代に、すぐれた人との出会いの機会を増やし、たくん影響を受けるようにすることが必要である。
 魅力のあるリーダーが、次のリーダーを育てる。
 今こそ、組織的にスクールリーダーを育てることが求められている。


著者経歴
 元大阪府堺市教育長
 元大阪府教育委員会理事 兼教育センター所長
 元文部省教育課程審議会委員


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