ある道徳の授業で──
「君たち、親友と呼べる友だちがいますか? とても仲良しで、気が合って、楽しい時も悲しい時もいつも一緒で、これから先、年をとってもずっと信頼し、助けあえる友だちが……」
「エーッ! そんなん親友というの?」
「あれっ? 違うの? 君の考えている親友って、どんなの」
「オレ、サッカーやる親友いてるし、塾で一緒に勉強する親友もおるし、家に帰ったら近所で遊ぶ親友いてるけど……。別々やで……」
ある家庭の子ども部屋で──
土曜日の午後、お友だちが3人遊びに来たので、お母さんが子ども部屋に、
「ハーイ、おやつですよ、どうぞめしあがれ」と持っていき、子どもたちの様子を見て驚いた。
娘はマンガを読み、一人はパソコンでゲームをし、もう一人はテレビを見ている。
みんな一人一人で別々のことをして遊んでいるではないか。
「あんたたち、一緒に遊べば?」というと、娘はマンガの本から顔を上げて、
「一緒に遊んでるやん?」と言う。
ある大学で──
大学生と話していても、「ちょっと風邪ひいてても、“病院行きや、
あした一緒に病院ついていったろか”とか言われたら、“うるさい”と思う。」
「関係ないやろ!」と立ち入って欲しくないことに話がおよぶと遮断してしまう。
この友だちとは、卒論のゼミが同じという点で仲良くしているけれど、それ以上はお互いに踏み込まない。自分の全人格をさらけだして、何もかも理解し合いたいというつきあい方をする学生が少なくなってきているように感じる。自分にとって必要な特定の分野だけのおつきあいが気が楽でいいらしい。何もかも一緒というような、濃い人間関係は疲れるという。
そう言えば……
最近、『中央公論』や『文芸春秋』などの総合雑誌を若い人は読まなくなった。書店には、アパレル、グルメ、旅行、パソコンなどの雑誌が、それぞれ細かいニーズに応じた分野ごとに何百種類
と並んでいる。知りたい特定の分野の情報だけが、すぐに手に入る。インターネットで自殺のサイトで知り合った見ず知らずの人と、車の中で自殺する時代である。これも、自分にとって必要な部分だけ気の合う「自殺の親友」なのだろうか。人間関係が全人格的なつきあい方から部分的なつきあい方に変わってきている。必要な情報だけがすぐ手に入る情報化社会の産物のような気がする。