No.31 平成18年3月 発行

教職員人事評価の改善

野口 克海
園田学園女子大学 教授

●校長によって大きな差

すでに多くの都道府県で教職員人事評価は実施されている。
この教職員人事評価ほど、どの学校でも同じことをやっているのに、校長によってうまくいっているところと、そうでないところの差が大きいものはないように思う。
ある教員に聞いてみた。
「自己申告用紙(自分なりの目標と、その達成への手だてを記入したもの)を前にして、校長先生と1時間も話し合いました。今まで、自分の思いをこれだけじっくりと校長先生に聞いてもらった経験はありません。校長先生は真剣に聞いてくれました。助言もいただきましたが、励ましてもらって“よし!頑張ろう”という気持ちがわいてきました」
と、この教員は笑顔で答えてくれた。
別の学校の教員は言う。
「うちの校長は、説教ばっかりですわ。もっとこうしろ、ああしろと命令ばかりで、私の言い分はほとんど聞いてくれません。どうせ、校長が替われば、見方も変わるでしょう。あんな独断的な校長に評価されるのも嫌ですわ」
いろいろな教員の反応を聞いていると、今さらながら校長によって大きな差があることに驚かされる。

●子どもの懇談と同じ

「どうしてこんな差が出てしまうのか?」 と考えてみると、子どもに行っている学期末の懇談を思い出してしまう。

「君は国語と社会はよくできているけど、数学がいまひとつやね」
「ケアレスミスが多いんだよ、簡単な計算ミスが…」
「この夏休み、毎日ドリルをやりなさい」

学期末の懇談で、子どもに指導(評価)することといったら、子どもの弱いところを見つけ、欠点を指摘し、弱みにつけ込んで、「君はここをガンバリなさい」 と言わないと教育(評価)した気がしないという習性が、私たち教師の身についてしまっているのかも知れない。評価というのは、評価される側が、「ヨーシ! 力が湧いてきた」と自信とやる気を出してくれるようにしなければ意味がない。

どうも、評価される教員の側に問題があるという以前に、評定者の側にも問題があるように思えてならない。

●評定者は研鑚を積もう

民間企業で行われるような成果主義的な評価は教員評価になじまない。
単に業績を査定するのが目的ではない。
教育という仕事は成果がすぐには見えにくいからである。

だからといって、評価がいらないということではない。
「評価はいらん!」
と言っていたら、今日では世間が許してくれない時代である。
評価のない仕事はない。では、どうすればよいか。
まず、これまであった勤務評定がなぜ形骸化したのかを整理してみよう。

  • これまでの勤務評定は、自己申告も自己評価のシステムもなかった。
  • 校長が観察法という方法で評定をしていた。
  • しかも多くの場合、一人で行っていた。
  • 結果についてもフィードバックされることもなかった。
  • 校長の中には、評価・評定のあり方についての勉強もせず、評定能力の不確かな人もいた。

全体として、評価の客観性、公平性、透明性に欠けていると指摘されてきた。

●信頼と納得の評価を

人が人を評価するのであるから、評定する側と評定される側との「信頼」が不可欠である。 また評価が評価で終わることなく、新たな目標に向かって教職員が自ら高まろうとする為には「納得」が大切である。「信頼」と「納得」に基づく教職員人事評価が行えるように、評定者は次のような事項について、もう一度謙虚に研鑚に励んで欲しい。

  • 学校全体の目標の設定や公務分掌ごとの目標、学年、教科、各委員会の目標を教職員と共にどのように設定するか。ここで問われているのは校長の「こんな学校にしたい!」という情熱とリーダーシップ。
  • その目標達成の為に各教職員に書かせる自己申告や自己評価のあり方、方法。
  • 面談(必ず評定補助者を置いて複数で)におけるラポート(共感的関係)のとり方。
  • 業績評価、能力評価の違いや、評価基準についての学習。
  • 評価結果の開示の仕方、フィードバックの方法。
  • 苦情対応や結果の活用について。等々。

さらに、教育はチームで行うものであるから、「和をもって尊し」という精神も忘れずに、たえず評価の見直しも進めて欲しい。

著者経歴

  • 元大阪府堺市教育長
  • 元大阪府教育委員会理事 兼教育センター所長
  • 元文部省教育課程審議会委員