No.40 平成18年12月 発行

教育の原点にかえる

杉田 豊
静岡文化芸術大学 副理事長
元静岡県教育長

晩秋から初冬にかけ、「高校の必修科目の履修漏れ」、「いじめによる児童・生徒の自殺」、さらには「教育改革に関するタウンミーティングの『やらせ質問』」と、教育関係者には気の重くなる日々が続いた。
 履修漏れは中学校にも飛び火し、必修科目「技術・家庭」の授業時間数が、定められた時間数を大幅に下回っていた私立中学のケースも報道された。
 文科省が、全国5,408の国公私立高校に行った調査によれば、履修漏れがあった高校数は、全体の12.3%に当たる663校、高校3年生の人数は9.0%の104,202人に及んだ。以下、「高校の必修科目の履修漏れ」について触れてみたい。

●なぜ、このような状況が生まれたのか

背景、経緯等については、既に新聞報道等でも紹介されているが、その根源は、文科省の掲げる「理想」と教育現場の「現実」との乖離(かいり)にある。
 同調査によれば、履修漏れが本格的に始まったのは、2003年度以降である。これは、02年度からの公立学校での完全週5日制の実施、高校での「ゆとり教育」を掲げる学習指導要領の実施と軌を一にする。また、受験競争が背景にあることも論を待たない。
 中学校や保護者にとって「進学実績」は高校選択の際の重要な指標となる。全人教育を求められ、一方では厳しい受験対策を迫られる。この狭間はざまにあって苦しんでいるのが高校の現実である。

●文科省の対応と責任の所在

必修科目の履修漏れ問題では、国は速やかな対応をした。文科省の示した救済策は次のようなものであった。

  1. 70コマ(1コマは50分授業)までは放課後、冬・春休みでの補講で対処。(各校の教務規定により50コマの対処も認める)
  2. 70コマを超えるものは、70コマ内で各科目に時間を割り振り、残りコマ数は、リポート提出などで授業免除。
  3. 既卒者の卒業認定を取り消す必要は無い。
  4. 生徒はすべて被害者というのが前提。できる限り不公平感が生じず、未履修者の立場にも現実的に対処できるよう、スピード感を持って対処。

この迅速な対応により、生徒はもとより、学校関係者も対応の目途がつきほっとしたに違いない。
 しかし、一方で、今後のためにも責任の所在について確認しておく必要がある。今回の事例から判断すれば、「教育課程の編成権」を持つ校長に一義的な責任がある。
 都道府県教育委員会の責任も勿論ある。文科省の責任もなしとはしない。しかし、責任の質がそれぞれ異なる。
 常に高い規範意識が求められる身ゆえに慙ざん愧きの念に耐えないとつぶやく校長、対応に苦悩する教育委員会の姿が目に浮かぶ。当事者の責任は、今後問われることになるが、背景や事情が千差万別であるだけに、公正な対処のためにも慎重を期さねばならない。

●教育の原点にかえる

必修科目の履修漏れは、我が国の教育の在り方に一石を投じる事件でもあった。これを機に、「必修」とは何か、「必修とすべきもの」とは何か、もう一度、教育の原点に立ち返って考えてみる必要がある。学習指導要領をどう見直すか。高校教育を大きく左右する大学入試の在り方を含め、将来を見据えた論議が不可欠である。
 PISA(経済協力開発機構主催)の「生徒の学習到達度調査」で高い評価を受けているフィンランドの学力観は、知識中心から思考力中心へ、社会に出て実際に使える能力へと転換してきているという。(『競争やめたら学力世界一』朝日選書797)
 これは、「生きる力」の育成を目指す我が国の学力観と基本的には変わらぬものである。問題は、目指す方向と現実の乖離であり、この隔たりをいかに縮めるかが喫緊の課題である。上記の書籍は、この課題解決に大きな示唆を与えてくれる。