No.66 平成20年10月 発行
新しい学校に着任した日、教職員を前に校長は一言だけ語ったという。
「子どもの話を聴いたってくれ」
4年前、30人近くいた不登校生が、昨年から、ほぼゼロになった中学校がある。
その学校を訪問した。
校長室にいた何人かの先生は、元気よく話してくれる。
校長さんは寡黙の人である。こちらから質問しないとほとんどものを言ってくれない。
「どうして不登校生がいなくなったんですか?」
という私の問いかけにも、
「子どもの話を聴いたってくれというのが私の信念です」
とだけ返事が返ってきた。
どうもよく分からない。
周りの先生たちの話から想像していくしかない。
一人の先生が語った。
「それまで、私は朝教室に行っても頭髪や服装の乱れた子がいると、“おはよう”という前に“なんや!そのカッコは!”と言ってたように思うのです」
「いまは“朝メシ食べてきたか?”“お母ちゃん元気にしてるか?”とその子の今日の調子を先に聴くようになりました」
なるほど、先に聴くことから始める。
本当に聴くためには忍耐がいる。相手を理解したいという気持ち、愛情、誠実さが不可欠である。
格好良く注意・指導・アドバイスすることは、本気になって「聴く」行為よりはるかにたやすい。
「生徒はこうあるべきだ」と生徒を正そうとする前に、「あるがままの生徒」の姿や心を一歩離れて感じとろうと努力することが「聴く」ということのようだ。
どうしても教室に入れない子も校長室には来る。
「どうしたんや? 今日は元気ないなあ」
そんなところから「聴く」ことが始まる。
校長室だけではない。保健室や職員室にも生徒たちは「聴いてもらい」にやってくる。
生徒たちからいろんな声が聴こえてくる。
「俺、おでんが一番好きやねん」
「よし、今度の土曜日、校長室でみんなでおでんをつくって食べようか!」
「障害者の作業所って先生行ったことある?」
「ない、いっぺん連れて行ってくれ」
子どもの話を聴いているうちに、楽しみが増えてくる。
先生たちが生徒との時間を自然に楽しんでいる。
当然、「勉強教えて」という声もあがる。
「家に居てるより、学校に居てるほうが面白い」と不登校の子が言いだす。
先生と生徒が仲良く、信頼し合える関係をつくる。
あたたかい教師のまなざしがあたたかい学級集団をつくりだす。
クラスで勝手にハイキングをしたり、誕生会をやったりする。
甘やかしているのではない。
生徒たちがおだやかになり、学校が落ち着いてきた。
生徒指導の問題行動が減った。
部活動が活発になり市の大会で優勝するクラブも出だした。
文科省の学力テストの学校全体の成績が、先生たちが驚くほど向上した。
「聴く」必要性を知り、「聴く」スキルを持っていたとしてもそれだけでは不十分である。
「聴きたい」という気持ちがなければならない。聴こうとし、理解したいという気持ちで生徒に接する教師が増えた。
教師たちの心に、忙しいけれど安心とゆとりが生まれてきた。
「生徒と過ごす楽しい時間は、この校長さんからもらったように思う」
と一人の教師が言った。
決して雄弁でなく、言葉少ない寡黙な校長さんが、一人ひとりの生徒の話を、いとおしく思うまなざしで聴く姿が教職員の多くに共有された時、この学校は変わった。
「子どもの話を聴いたってくれ」
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