ブックタイトル令和3年度版「中学道徳 あすを生きる」内容解説資料

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令和3年度版「中学道徳 あすを生きる」内容解説資料

111 20あふれる愛11020あふれる愛20生まれてきた大切な生命あふれる愛そう、あれは一九五二(昭しょう和わ二十七)年夏のことでした―。強きょう烈れつな太陽の熱がシートをさし掛かけただけの、あるいは古板をわたしただけの屋根を焼いているコルカタのスラム街。生きる旅をつづけるには、あまりにも疲つかれはてている人びとが、それでもわずかな日ひ陰かげを求めて路上をさまよっている。ゴミ箱に捨てられ死んでしまった赤あかん坊ぼうの死体を、野ネズミの群れが食い荒あらしている前に、いまにも倒たおれそうな老人がぼう然と立ちつくしている。連日のように、数十人もの人びとが路上で死を迎むかえる。まるで、地じ獄ごく絵えのような風景││。そんな地じ獄ごく絵えのなかで、「すべてをささげてスラムの貧しい人のなかのさらにもっとも貧しい人のためにつかえる。」と誓せい願がんして四年めのマザー・テレサは、毎日、子どもや病人の世話に献けん身しん的に歩きまわっていた。そんなある日、マザーは、路上に行き倒だおれている老ろう婆ばに出会う。極度の栄養失調にやせ衰おとえろ、皮ひ膚ふは生気をうしない乾かわききっていて、死人のようにしかみえないその老ろう婆ばに、目をとめたマザーが、十字を切って離はなれようとしたとき〝死体?の腕うでが一いっ瞬しゅピんクリと動いた。まだ生きている!マザーはかけよった。体のあちこちをネズミにかまれたか、アリにくわれたか、血が流れ出しており、ほとんど死んではいるが、まだ生命の火は絶えていない。神に望まれてこの世に生まれてきた生命だ、生きられるところまで生きさせてあげたい!マザーは、抱だきあげると、スラムをぬけ、病院へといそいだ。骨と皮だけの体は、小こ柄がらなマザーでも充じゅう分ぶんに抱だきかかえられるほどの重さでしかなかった、という。だが、必死で病院にいそぐマザーの姿を、いきかう人はだれも見向きもしない。たまにふりかえる人の目には、老ろう婆ばを抱だいて走り行くマザーのサリー姿は、「どうせ死んでいくのに、あの修道女は何をいそいでいるのか。」という奇き異いな感じにしかうつらなかったのだ。病院でもそうだった。「だれか、だれか早くこの人を診みてください!」汚よごれきり悪あく臭しゅをうはなっている〝老ろう婆ば?を抱だいて叫さけぶ白いサリーの修道女を、居あわせた患かん者じゃも薬箱をもった看護婦も、そして端たん正せいな白衣のインターンも、だれもかもが、好こう奇きの目でみるばかりだった。ようやく現れた院長も、眉まゆをよせ、ぶっきらぼうな口調で病人をひきとる意志のないことを露ろ骨こつにみせる。「マザー、この病院には、あなたが考えるほどの余よ裕ゆうはないんですよ。どうせ死ぬにきまっている人間は手当てのしようもないし、収容するスペースもありはしないんですから。」▼▼▼マザー・テレサ▲スラム都市部で貧しい人々が多く住んでいる地区。▲看護婦現在の看護師のこと。▲インターン医師になるための実習をしている研修生。▲マザー女子修道院長のこと。▼▼「でも、この人は生きているんですよ。まだ天国に行ったわけではありませんよ。」「そうかもしれない。が、この人はあなたがたまたまみかけた病人でしょう。あなたにとってはその人ひとりかもしれないけれども、このコルカタにはそういう人は何百人といるのですから……。」●マザー・テレサ(1910~1997年北マケドニア出身)貧ひん困こん救済に力を尽つくし,1979年にノーベル平和賞を受賞写真・沖おき守もり弘ひろ▲サリーインドの女性が着る衣い装しょ。う5101520 510150 1000kmインドデリーパキスタンパキスタンネパールネパールブータン中国ちゅうごくバングラデシュコルカタミャンマー110-113 1-20_あふれる愛_200203.indd 110-111 2020/02/28 10:55:56時代を超えて伝えていきたい、先人たちや今を生きる人たちのさまざまな生き方を取り上げました。成功談だけでなくそれぞれの苦悩や努力から、誇りある生き方についての考えを深めることができます。ビザ発給で多くの命を救った杉原千畝の姿から,国際貢献について考えられる教材です。3年p.44「7命のトランジットビザ」杉原千畝「1風に立つライオン」3年p.6の主人公のモデルとなった医師について取り上げたコラムです。「ケニアの地に立ったライオン」3年p.9柴田紘一郎135 25私は清掃のプロになる13425私は清掃のプロになる内で一日中、ほとった。、全身がほぐれてかす清せい掃そうの仕事のは、考えるより先直接頼たのんだのだ。のあまりに熱心なだったことなどかいた音おん響きょ機う器メー。。そして、清せい掃そうに強したあと、鈴すず木き●見えるところだけでなく,見えないところも丁てい寧ねいに清せい掃そうするどんなことでも自分を信じてやっていくことが大事だと思います。周りから「無理だ」と言われても気にせず、自分がしたいことに自信をもって取り組んでみてください。やりたいことが見つからないときは、とにかくなんでも目の前のことを一いっ生しょう懸けん命めいやってみること。やってみて、違ちっがたなと思い、まったく別の道をめざすことになっても、その経験はぜったいに役に立ちます。あなたが一いっ生しょう懸けん命めい取り組んだことは、「生きていく力」になるのです。新にい津つ春はる子こさんからあなたへしていると、」510510151520ることになった。資格試験を受け、みごとに合格した。仕事に打ち込こむようになった。まう。いのだろう?「心」とはいったいなんをしていたが、答えは見つからなかった。こりほほえに言われたたような気ハイしてもするぞ。)事に対するわっていっ作・高たか橋はしみか私の生き方132-135 1-25_私は清掃のプロになる_170316.indd 134-135 2020/02/28 11:08:57生と死を見つめ続けるマザー・テレサの生き方を描いた教材です。マザー・テレサ1年「20あふれる愛」p.110私がこの場所に来たことにも意味はある。いいえ意味あるものにしなければならない。たったいま目もくした出で来き事ごとを世界中の人たちに知らせなければならい。私のちっぽけな悩なやみなど、ふきとばすほどの衝しょうでした。やらなければならないことは山ほどある。のときジャーナリストという仕事に全力をそそいでく決意が固まりました。紛ふん争そう地では、だれにも知られぬまま、何千、何万いう人たちがひっそりと命を落としています。私たがただ知らなかったというだけで、たくさんの命がわれている。知らないことは罪だとさえ思えます。もちろん万能ではありませんが、医者の使う痛みめや抗こう生せい物質はすぐに効き、傷や病を治します。そに比べると、ジャーナリストの仕事は、目に見えてきな変化をもたらさないこともあります。すぐにはを助けられないもどかしさに悩なやむこともあります。も紛ふん争そうという病びょう魔まをじっくりと退治する底力をもっいるはずです。医者には医者の、ジャーナリストにはジャーナリトの役目がある。医者は目の前で苦しんでいる人を救い、ジャーナリストは彼かれらの存在を世界にえることで、どうしたら救うことができるか、考えるきっかけをつくっていく。それぞれの役目を果たしていくことで、少しずつ、でも確実に平和な世界が広がっていくでしう。私はそう信じています。作・山やま本もと美み香か『戦争を取材する』講談社によ山やま本もとさんが厳しい紛ふん争そう地帯で仕事を続けたのは、どんな思いからだろう。真実を追い求めようとするとき、だろう。考えてみよう自分にプラスワン紛ふん争そう地や被ひ災さい地では混乱が起きているため、誰だれかが現地に入って取材をしなければ、そこに住む人々の本当の声は、世界に伝わりにくくなります。なくなる直前まで、山やま本もとさんがシリアで撮さつ影えいしていた映像には、紛ふん争そうの中、父親に抱だかれる赤ちゃんの姿が映っていました。ジャーナリストとして、過か酷こくな運命にもめげず懸けん命めいに生きる人々の姿を伝えることで、平和な世界の実現を心から信じて生き抜ぬいた、四十五歳さいの生しょう涯がいでした。●2011年3月,宮みや城ぎ県気け仙せん沼ぬま市で山やま本もとさんが撮影した東ひがし日に本ほん大だい震しん災さいの被ひ害がいの様子●2011年8月,アフガニスタンのカブールで取材中の山やま本もとさん山やま本もとさんは、二〇一三年に日本人で二人目の「ワールド・プレス・フリーダム・ヒーロー賞」を受賞しました。参考参考「風に立つライオン」の主人公には,モデルとなった人物がいます。医師の柴しば田た紘こう一いち郎ろうさんです。さだまさしさんは柴しば田たさんの活動から想像を膨ふくらませ,この歌を書き上げたといいます。その柴しば田たさんは,実際にはどのような活動をしたのでしょうか。空を切り裂さいて落下する滝たきのように僕ぼくはよどみない生いのち命を生きたいキリマンジャロの白い雪それを支える紺こん碧ぺきの空僕ぼくは風に向かって立つライオンでありたいくれぐれも皆みなさんによろしく伝えて下さい最さい后ごになりましたがあなたの幸しあわせ福を心から遠くからいつも祈いのっていますおめでとうさようなら作・さだまさし人はきっと一人ひとりが天から「お役」を授さずかって生まれてくる。つまり「人生」とは自分に与あたえられた「お役」を探す長い旅の呼び名の一つだろう。思いどおりにはけっして生きられない人生の中で悩なやみ苦しみながらも、どうにかその答えを見つけられた人のことを「しあわせ」と呼んでよいのだと思う。人は自分以外の誰だれかの役に立つために生まれてきた。そのことを誇ほこりに思う道が見つけられたら僕ぼくはそれを「生きがい」と呼びたいと思う。さだまさしさんからあなたへ5「風に向かって立つライオンでありたい」とは、どんな生き方を言うのだろう。考えてみようこの詩から私たちが学べることは、どんなことだろう。自分にプラスワンケニアの地に立ったライオン医師を志す柴しば田たさんは子どもの頃ころ,アルベルト・シュバイツァーの伝記と出合います。シュバイツァーはアフリカで献けん身しん的な医い療りょう活動をし,ノーベル平和賞を受賞した医師です。彼かれの伝記に感かん銘めいを受けた柴しば田たさんは,「いつかアフリカに行きたい。医師になりたい。」と考えるようになりました。外来患かん者じゃを診しん察さつする柴しば田たさん1971年,アフリカのケニアへその後,柴しば田たさんは長なが崎さき大学医学部で学び,外げ科か医として腕うでを磨みがきました。この長なが崎さき大学には熱帯医学の研究所があり,海外技術協力事業団*と協力して,1966年からケニアへ医師や看護師などを派は遣けんし,医い療りょう支し援えんの活動をしていました。1971年,当時30歳さいだった柴しば田たさんは,派は遣けんの募ぼ集しゅうに対して自ら志願し,子どもの頃ころからの夢だったアフリカのケニアへ行くことになりました。*現在の国際協力機構(JジャイカICA)。ケニア人看護師とともにケニアでの医い療りょう支し援えん活動ケニアのナクールにある病院に赴ふ任にんした柴しば田たさんは,さっそく活動を始めました。当時は十分な医い療りょう設備がなく,また,ほとんどの患かん者じゃと通訳をとおして会話をしながら懸けん命めいに診しん察さつや手術をしました。ときには,患かん者じゃの手を取って体をさするなど,心のケアも大切にしました。柴しば田たさんにとって,ケニアでの約2年間は「医師としての仕事の原点」だったといいます。柴しば田たさんほか多くの日本人による医い療りょう支し援えんは,現在,ケニア人の医い療りょう関係者の育成など,ケニアの医い療りょうの発展につながっています。入院患かん者じゃの回かい診しん私の生き方9参考1風に立つライオン006-009 3-01_風に立つライオン_190219.indd 8-9 202羽田空港の環境マイスターという仕事への思いについて取り上げた教材です。新津春子1年p.132「25私は清掃のプロになる」『キャプテン翼』の作者として有名な高橋陽一さんに,漫画家という仕事について語っていただきました。高橋陽一1年p.6「1サッカーの漫画を描きたい」5101サッカーの漫画を描きたい10すると、人気順位がじょじょに上じょう昇しょしう、翼つばがさライバルと対決する「南なん葛かつ小対修しゅう哲てつ小」までをどうにか描かき切ることができた。ほっとしたとともに、漫まん画が家かとしての自信が生まれたときでもあった。私の代表作『キャプテン翼つば』さを読んで、プロのサッカー選手になる夢をもち実現した選手が、日本国内だけでなく、海外にもおおぜいいると耳にする。もはや、世界中の子どもたちにとって翼つばのさ活かつ躍やくは憧あこがれとなり、めざす夢の対象となっているのだ。サッカー漫まん画がを描かいてきた私にとって、これ以上の喜びはない。「ゴール!ニッポン、大おお空ぞら翼つばのさ同点ゴール!優勝の行ゆくえ方はまだわかりません!」大おお空ぞら翼つばにさは、大きな夢がある。そう、日本代表選手としてワールドカップに出場し、優勝すること。その夢の実現に向かって、翼つばさはこれからも努力し続ける。私も大おお空ぞら翼つばとさともに、これからも努力し続けていきたい。作・編集委員会絵・高たか橋はし陽よう一いち漫まん画がを描かくうえでのさまざまな困難にも負けず、高たか橋はしさんはなぜ努力できたのだろう。努力は簡単にできることだろうか。努力をするために大切なことはなんだろう。締しめ切りに追われながら、ひたすら描かき続けるのが漫まん画が家かの仕事です。描かくことが大好きなので楽しいことも多いですが、人気が出ず連れん載さいが終わってしまい、つらいと思うこともあります。僕ぼくの漫まん画がを読んで、すごくおもしろかった、勇気が出た、と言ってもらえると、描かいていてよかったなと思います。皆みなさんも、好きなもの、夢中になれるものを見つけて頑がん張ばってください。高たか橋はし陽よう一いちさんからあなたへ考えてみよう自分にプラスワン私の生き方誇りある生き方から学ぶ「あの人」の生き方、「自分」の生き方新コラム2851051015207 1自分の弱さと戦え61自分の弱さと戦え選手として、世界を飛び回る国くに枝えだ慎しん吾ご。野球少年だった九歳さいのとき、脊せき髄ずいに腫しゅ瘍よう子すの生活となった。十一歳さいで車椅い子すテニスを始め、高校一年のときに訪おとずれたオラニスで生計を立てている選手の存在を知る。それが目標となった。では、二〇〇四(平へい成せい十六)年アテネ大会ダブルス金メダル、二〇〇八年北ぺキン京大ダル、二〇一二年ロンドン大会シングルス金メダルと、合計三つの金メダルを獲かくに全仏オープン優勝五回、全米オープン優勝五回など、二〇一八年までに車椅い子すラムのシングルスで、二十六勝という実績を残してきた。その圧あっ倒とう的な強さに、手が最大の賛辞を贈おくる。えば強気な発言でも知られる。勝てば拳こぶしを空に突つき上げ、負ければ全身で悔くやしさきしてはばからない。ら天才的な強さを誇ほこっていたわけではない。むしろメンタルの弱さが課題だった。リンピックアテネ大会では確かにダブルスで金メダルをとったが、ダブルスを組に助けられた部分が大きかった。準決勝ではミスを連発し、試合後に泣き崩くずれるそののち、世界ランクは十位前後にとどまり続け、気持ちばかりがあせるような会ったのがオーストラリア人のメンタルトレーナー、アン・クインである。低てい迷めい六年一月の全ぜん豪ごうオープンに出場した国くに枝えだに、クインは、なれると思う?」の目をまっすぐに見ながら、クインが告げた。たいじゃなくて、世界一なんだと言い切る練習をしなさい。」ているんだ。)正直な気持ちだった。しかしクインは全ぜん豪ごうオープンの期間中、で「俺おれは最強だ!」と叫さけぶことを命じた。「部屋で叫さけべばいの中で思い続けるよ。」と、ごまかそうとしても妥だ協きょうしてく」と恥はずかしい気持ちを振ふり捨てて叫さけんだ。ながら、レストラン中の視線を浴びた。恥はずかしい。しかしっ切れた感かん触しょくがあった。本当に最強なのかはわからない。だい」と思っているのは本当だ。ならば、最強をめざして、がかないじゃないか。恥はずかしいと思うのは、誰だれよりも自分自いないからじゃないか―。そう気づいたのである。自分の弱さと戦え国くに枝えだ慎しん吾ご▲脊せき髄ずい中ちゅう枢すう神経系の一つ。事故や病気などで脊せき髄ずいを損傷すると、損傷した部分より下の神経が麻ま痺ひし、運動や知覚などに障がいが生じる。▼●2015年,全仏オープン決勝戦006-009 2-01_自分の弱さと戦え_国枝慎吾170324.indd 6-7 2020/02/28 9:34:5515143 25 iPS細胞で難病を治したい14225 iPS細胞で難病を治したい●ノーベル賞授賞式でメダルと賞状を受け取る山やま中なかさん。ではない。さら。私は、『Vision and Work hard』という言葉を大切にしています。『Vision』は明確な目標をもつこと、『Workhard』は一いっ生しょう懸けん命めい努力することを意味します。何かに取り組むときは、がむしゃらに頑がん張ばればよいわけではなく、頑がん張ばった結果どうなりたいのかという目標を見失わないことが大切です。中学生の皆みなさんは、これから試し行こう錯さく誤ごしながら目標を見つけていく時期だと思います。自分の目標に向かって努力を惜おしまずに進んでいってください。山やま中なか伸しん弥やさんからあなたへ私の生き方140-143 3-25_iPS細胞で難病を治したい_170327.indd 142-143 2020/02/28 10:29:00精神面での課題を抱えながらも,それを乗り越えた国枝選手の教材です。「1自分の弱さと戦え」国枝慎吾2年p.6夢の実現に向けて走り続ける研究者の姿を描いた教材です。「25 iPS細胞で難病を治したい」山中伸弥3年p.140真実を追求し続けるジャーナリストの生き方を描いた教材です。「9戦争を取材する」山本美香2年p.50私がこの場所に来たことにも意味はある。いいえ意味あるものにしなければならない。たったいま目もくした出で来き事ごとを世界中の人たちに知らせなければならい。私のちっぽけな悩なやみなど、ふきとばすほどの衝しょうでした。やらなければならないことは山ほどある。のときジャーナリストという仕事に全力をそそいでく決意が固まりました。紛ふん争そう地では、だれにも知られぬまま、何千、何万いう人たちがひっそりと命を落としています。私たがただ知らなかったというだけで、たくさんの命がわれている。知らないことは罪だとさえ思えます。もちろん万能ではありませんが、医者の使う痛みめや抗こう生せい物質はすぐに効き、傷や病を治します。そに比べると、ジャーナリストの仕事は、目に見えてきな変化をもたらさないこともあります。すぐにはを助けられないもどかしさに悩なやむこともあります。も紛ふん争そうという病びょう魔まをじっくりと退治する底力をもっいるはずです。医者には医者の、ジャーナリストにはジャーナリトの役目がある。医者は目の前で苦しんでいる人を救い、ジャーナリストは彼かれらの存在を世界にえることで、どうしたら救うことができるか、考えるきっかけをつくっていく。それぞれの役目を果たしていくことで、少しずつ、でも確実に平和な世界が広がっていくでしう。私はそう信じています。作・山やま本もと美み香か『戦争を取材する』講談社によ山やま本もとさんが厳しい紛ふん争そう地帯で仕事を続けたのは、どんな思いからだろう。真実を追い求めようとするとき、だろう。考えてみよう自分にプラスワン紛ふん争そう地や被ひ災さい地では混乱が起きているため、誰だれかが現地に入って取材をしなければ、そこに住む人々の本当の声は、世界に伝わりにくくなります。なくなる直前まで、山やま本もとさんがシリアで撮さつ影えいしていた映像には、紛ふん争そうの中、父親に抱だかれる赤ちゃんの姿が映っていました。ジャーナリストとして、過か酷こくな運命にもめげず懸けん命めいに生きる人々の姿を伝えることで、平和な世界の実現を心から信じて生き抜ぬいた、四十五歳さいの生しょう涯がいでした。●2011年3月,宮みや城ぎ県気け仙せん沼ぬま市で山やま本もとさんが撮影した東ひがし日に本ほん大だい震しん災さいの被ひ害がいの様子●2011年8月,アフガニスタンのカブールで取材中の山やま本もとさん山やま本もとさんは、二〇一三年に日本人で二人目の「ワールド・プレス・フリーダム・ヒーロー賞」を受賞しました。教材・コラムで取り上げている人物(敬称略)高橋陽一1サッカーの漫画を描きたい希望と勇気,克己と強い意志アンドレス・イニエスタ,フェルナンド・トーレス世界にはばたく『キャプテン翼』千住真理子2挫折から希望へよりよく生きる喜びみつはしちかこ3人のフリみて思いやり,感謝近藤勝重4「愛情貯金」をはじめませんか礼儀さかなクン5さかなのなみだ公正,公平,社会正義相田みつを7トマトとメロン向上心,個性の伸長マザー・テレサ20あふれる愛生命の尊さ野口健21富士山から変えていく社会参画,公共の精神塚本こなみ22木の声を聞く自然愛護木下晋時を刻んだ手新津春子25私は清掃のプロになる勤労重松清29自分だけ「余り」になってしまう……相互理解,寛容鈴木憲美33緑のじゅうたん真理の探究,創造崎原真弓34「肝心」のバスガイド郷土の伝統と文化の尊重,郷土を愛する態度相良倫子平和の詩「生きる」1年2年国枝慎吾1自分の弱さと戦えよりよく生きる喜び山本美香9戦争を取材する真理の探究,創造椋鳩十16樹齢七千年の杉感動,畏敬の念坂茂20行動する建築家坂茂社会参画,公共の精神井上康生23初心希望と勇気,克己と強い意志田中正造,二宮尊徳環境保全と持続可能な社会西岡京治27ダショー・ニシオカ国際理解,国際貢献猿渡瞳31命を見つめて―猿渡瞳さんの六百四十六日―生命の尊ささだまさし1風に立つライオンよりよく生きる喜び柴田紘一郎ケニアの地に立ったライオン吉田沙保里2銀メダルから得たもの希望と勇気,克己と強い意志山折哲雄3出迎え三歩,見送り七歩礼儀新美南吉,巽聖歌,梅谷庄吉,孫文先人たちが育んだ友情杉原千畝7命のトランジットビザ国際理解,国際貢献中村裕11No 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